【ミサ説教】マルコ福音書2章18-22節「新しい皮袋になる」

マルコ福音書2章18-22節「新しい皮袋になる」2025年1月20日旅の里いやしのミサ
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- イエス様は「新しいぶどう酒」です
- 私たちの中に新しいぶどう酒が入ってきたら、ふるい皮袋は破れ去ります
- それには痛みも伴いますが、再生は恵みです

古代の水筒は動物の胃袋などで作られていたらしいね。今でも野外でワインを飲むための「ワインスキン」という水筒があるらしいよ。
福音朗読 マルコ福音書2章18-22節
そのとき、
18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。
そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
新しい皮袋になる
イエス様の今日は説教のところですけれども、このぶどう酒と皮袋のことが語られてるんですよね。昔は瓶がなかったというか、ガラスがまだ加工できていなかったので、この液体をですね、保存するのはなかなか難しい難しかったっていうか、一つの方法が、この皮袋、ちょっともう実はもちろん見たことがないわけじゃないけど使ったことないですけど結局あの瓶の代わりに皮袋に、多分羊かなんかの皮だと思います牛か何かの皮だと思いますがその中にそれを封して、その中にぶどう酒を入れてですね、それで持ち運びしていたんだと思います。
ただここにあるあるある通り、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら駄目みたいで、新しいぶどう酒は新しい皮袋に、両方ともですね、新しいもんでないと駄目みたいですね。古いぶどう酒は古い皮袋に入れても大丈夫だったみたいですけど、やっぱりちょっと発酵が進んだりするから、多分その皮袋との関係がやっぱりあってですね、今のガラスの瓶だったら、どんなもの入れようが何の問題もないですが昔はなかなか難しかったんでしょうね。
古いものが捨てられない私たち
古いぶどう酒は古い皮袋に入れて、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるという。ふうなことだったみたいなんですけどイエス様の話は一体何なんなのかって言ったらですね、イエス様私達に新しいぶどう酒をくださるということなんですよね。
古いぶどう酒ではなくて、実は私は飲まないんで、実はわかんないけど、古いぶどう酒の方が美味しいんかな、どんなですか新しいぶどう酒とどっちが美味しいのかともかく、イエス様は結局新しいぶどう酒として私達に恵みを与えてようとするんですが、実際ですね当時の人は、どっちかというと古いぶどう酒の方が良かったわけなんですね古いぶどう酒は何かって言ったら直接的には律法による生き方っていうのかな、ユダヤ人の生き方なんですけど、思いますけどね、やっぱなんか結局ねみんな古いもんが好きなんすよ。
なんでか知らんけど、新しいものがどうもやっぱり苦手みたいですね。年取ってくればようけそうかもしれないけど、何かを変えるとかなかなか嫌で、何か古い皮袋に古いぶどう酒にちょっとこだわりがちということなんですよね。
癒しのことで言ったら、なかなかね、この古いものに囚われてると、結局変われないっていうか、なんていうんですかねそれがなかなか難しいっていう大きな問題がやっぱりあって、例えばねその古いぶどう酒、別にこれはアルコールってことだけじゃないけど実際そのアルコール依存症の人とか、やっぱりアルコール飲まなきゃ生きていけないように何かこの古いぶどう酒と古い皮袋にもうなっちゃってて、なかなかそれから、例えば抜けられないわけですよねこん中にあんまりおらんかもしれないけど、案外エリートの人なんかに多いのは、何か子供のときにやっぱ教育されてるんですよ。
親から一番にならなきゃお前は価値がないとか言われて育って、だから優秀であることが自分の何か生きる、こうね、この中には多分あんまりないから大丈夫ですか。だけどこのエリートとか、そういう人たちはそういう人そういう何か古いぶどう酒に囚われてて、一位にならないと満足できない、二位三位は駄目みたいな。ちょっとアスリートもそういう傾向ありますけど、やっぱり1位目指して頑張ってるからあれですけどでも、案外ね、いろんな古いぶどう酒がいっぱいあって、なんかねもうそれに安住っていうかですね、そういうことは日本人に一番多いのは何かって言ったら、みんなと同じにやるっていうなるほど。
なんでか知らんけどみんなと同じやらなきゃならないんすよ。学校に行っても職場にいてもそうしなくて本当はいいかもしれんけど、結局同じにやらんといかんって、いうそういうなんていうか、難しい言葉で言ったら、同調圧力みたいなのがあって、それもね、古いぶどう酒と古い皮袋でそうしとったら安心だから何かそういうふうに何か強い何かしなきゃならないみたいな感じなんですけどでも、実際は、イエス様はいつも私達に新しいぶどう酒をくださるっていうんですかね。
新しいぶどう酒を入れたら、古い皮は破れちゃうんですよね。だからどっちかというと古い皮が破れた方がいいっていうか、古い皮袋って古い自分ですからそれはちょっと破れちゃって、新しいブドウ酒をいただいて新しい皮袋になって私達が生きていけたらまあねそれが実は本当の癒しだと思いますね実際のところね。
でも不思議なもんでそれちょっと病気の人は賛成しないかもしれないけど、病気の人は案外ね、病気である古い皮袋が好きみたいな人もいて、誰がどうかなかなか難しいですけどね、なんかね病気の方がなんかなんかもう子供のときからずっとそうだから、なんかもうそっから出たくないとか、だからね一旦引きこもったらもう15年ぐらい出たり、全然出れないっていうか、もうちょっとそこに古い皮袋学校できちゃってですね、古い皮袋の中に何か止まっちゃうみたいな感じなんですよね。
難しいですよ、そっから出ていくのは。なんかちょっとやっぱりね変わるのが嫌だから、何か古い皮袋中に入れて、古いぶどう酒飲んで、もうそこでとどまっておいたら安心みたいなことなんだけど、でもなんかねイエス様て何かそれはイエス様は新しいぶどう酒をくれるからこんな古い皮袋が破れちゃうっていうのかな。だけど破れるのはなんか痛いけど、でも案外古い自分が破れ去って、イエス様に新しい皮袋にしてもらったら、実はなんかもっとさっぱりすっきりなんかいい感じになるんだけど、案外やっぱりみんな怖いっていうか、縛られてるっていうか、なかなかできないんですよね。
新しいぶどう酒はイエス様だし、キリスト教と言えば聖霊の力っていうんすかね、神の力はいつも新鮮で新しいから。神から聖霊いただくとですね、もうなんかすごいなんか生き生きとしてきたり、力がみなぎったり、もう、そうなってきたら、もう、なんかもうお酒飲まなくてもいいとか、お金に執着しなくていい、とかいろんなものに執着も取れていくけど。なんかねやっぱり神さまも私達に新しいぶどう酒を与えてくださるんですよね。それを私達がいただけるから変わっていけるっていうのかな。あるいは何か古い自分にとらわれなくなっていける。でもなかなかこれすぐにいかない。古いのってすぐ戻ってきて、もうね子供のときからの癖になってるから、こんなそれを打ち破るのも簡単ではないけど、でも少しずつ新しいぶどう酒を私達が飲んでいたら、やっぱ変えられてくるっていうんですかね。
もうすんごい縛られてますから。何かを親から言われて子供のときに親から言われたとか、なんか毒親に育てられたとか、下手したらね、もうなんかそれあんまりキリスト教では言わないけどもなんか先祖代々のなんかもう悪いも背負ってる人もいっぱいいて、もうなんかもうおじいちゃんとおばあちゃんとか、なんかひいおじいちゃんとか、なんかめちゃめちゃな人でどうのこうので、それがもう何か影響を受けてるとかっていうふうに思える人も、全部古い皮袋、もうね、自分だけじゃなくてもう親が古い皮袋かぶってて、おじいちゃんおばあちゃんも、古い皮袋被ってて、みたいな感じで、ものすごいなんかもう根深く、古いもんが縛ってるっていう感じのする人も実は多々いるような気がやっぱりしますけれども、だからこそ私達は新しいぶどう酒をいただいて、古いものを捨て去るような気持ちっていうのかな、なんか手放すっていうかですね。実際、新しいぶどう酒が入ってきたら古い皮袋破れちゃうのでね、自然にもうなくなっちゃうんだけど、でも変わり目はちょっとしんどいかもしれないすけど、いや、やっぱりね、何か新たなものが来たらやっぱなんかいいかもしれないけど、慣れてないから何かうまく調和が取れないみたいな。でも本当に古いものがなくなって、私達は新しい皮袋になるんだったら、まあねそれはね、もう年齢関係ない。
イエス様の新しいぶどう酒を受け取ろう
ないないですし魂の話ですから、何か違う力をいただいて私達はなんか本当に癒しっていうか救いっていうか、新たな世界っていうか、何かそういうものがぱっと開けてくる。恵みが与えられて、それはね本当にお金お金いくら積んでも買えない大きな本当の恵みですけど、大体イエス様の恵みは大体お金と関係ないですしね、ただでもらえるからこんなに楽な問題という100万円するとか言うたらなんか大変やけどね、でも大体イエス様の恵みはただですしね。
その、ただなんだけど、それをなんか、なんかあんまり受け取らないで、なんかもう見ない人多いですけど、やっぱりいつも新しいぶどう酒として、今日もですね、いつもいつも新しいものとしていただけるので、それを私達が何か今日のミサでですね、1人1人がそれの恵みを汲んで、癒しと救いと励ましと力づけ、それをもらいながら歩めるように、そして自分だけじゃない、自分の友達とかね家族とか仕事場でやっぱり苦しんでる人がいると思う。
ですけどそういった時にも新しいぶどう酒が注がれるようにですね、このミサの中でお祈りしたいと思います。
Podcast: Play in new window | Download