説教ライブ

【ミサ説教】ヨハネ福音書8章1-11節「さらに次の一歩を踏み出していこう」

hanafusafukuin

ヨハネ福音書8章1-11節「さらに次の一歩を踏み出していこう」2025年4月6日四旬節第5主日ミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 私たちをゆるしつづけてくださる神様には感謝の思いしかありません
  • そして感謝が増すほど、悔い改めの心も深まります
  • 感謝と悔い改め、この二つしか私たちにはないでしょう
  • その思いのうちに、さらに次の一歩を踏み出して生きていきたいと思います

英神父さんは4月8日に六甲教会から山口県の長府教会の主任司祭代行として異動なさいました!

ヨハネ福音書8章1-11節

1〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。
2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

さらに次の一歩を踏み出していこう

今日の福音書はヨハネの8章非常に印象的なエピソードです。姦通の現場で捕えられたということで。その場合は、ここにある通り、死刑で石で撃ち殺すという死刑の罪を帯びなければならないということなのでしょうか。でも、この女の人を死刑にするよりも、イエスを試すためにこの死刑に定められた女性を連れてきて、この女の人をどうするか、イエスを試したかったわけですが、でもイエス様が全く彼らの罠と言うのにはまらないので、屈み込んで指で地面に何か書き始められた。そして彼らがしつこく問い続けるので、罪を犯したことのない者がこの女に石を投げよ、ということによって、結局自分自身のことを一人一人振り返らざるを得なくなってですね、やはり大きな罪かどうか、何らかの罪を犯した人々はほとんど全員なので、結局誰も石を投げることができず去ってしまったという非常に印象的なエピソードです。

この女性は死刑を宣告された。死を覚悟したんだけど、イエス様から突然この赦されるというですね、この罪の咎を負わないということになって、イエスはこういうわけですね。「私もあなたを罪に定めない」と。信じられない赦しをこの女性は得て、そこから彼女は立ち直って別の人生を歩むことになるわけですね。

この人はもちろん姦通の罪という極端な罪を犯しているわけですが、でも実際に私たち一人一人、ここに集まった人々の中の一人として考えたら、結局やはり石を投げられない。私たちも何らかの形で罪を犯して失敗をしたり、過ちを犯しているからですね。

私たちクリスチャンにとって、多分最も大きな恵みは何なのかというと、神様から私たちは赦されている存在、赦しの恵みを受けているということが、私たちクリスチャンにとっての最大の恵みだというふうに思います。そこが単なる道徳とか倫理と違って、もちろんキリスト教ではこうしなさいとか、殺したらだとか、もちろんいろいろありますけれども、でもそれ以上にもっと大事なのは、私たちは赦された存在であって、赦された喜びを生きていくことができるということですね。
その大きな神様の憐れみがあるんです。それを私たちはしっかり心に刻みたいというふうに思います。

この赦しを私たちがどのように感じるのかということですが。自分の罪、自分がどれほど罪を犯したかということを強く意識するとともに、何と言いますか、赦される喜びはどういうものかというと、何て言うんですかね、神様がどんなに罪を犯しても、私たちを変わらず愛してくださるという神様の愛に対する感謝の気持ちと、それと共に、やはりその感謝が増えれば増えるほど、私たちはどれほど罪深いかということを感じる悔い改めの心っていうんですかね、その2つがやはり心の中から湧いてくるということなんですね。

ペトロは晩年ですね。おじいちゃんになってから絶えず涙を流していたというんですね。どういう涙を流していたかというと、一つは自分がイエスを裏切った、知らなくて3回言った後にですね、自分の罪の大きさに自分がダメな人間だということで、涙を何で裏切ったのかということで涙を流した。
それとともに、その自分の罪深さをイエス様が赦してくださったという感謝の気持ちから涙を流していた。だから、感謝の気持ちと悔い改めの気持ちが混ざった涙を、晩年になったペトロは絶えず涙を流していたというのですが、それは私たちの信仰の一番の基本でしょう。

感謝の気持ちが深まればということを。私たちは悔い改めの気持ちも、自分がどれほどダメだったことがわかれば分かるほど、神様の愛の偉大さに私たちは心が開かれている。低く開かれていく。それを私たちは心に何か刻みたいというふうに思います。

3年間ここにいて、どうも私も実は同じ気持ちだけですけれども、一つはやはり感謝の気持ちですね。皆さんから良くしていただいていることがあって、神様と皆さんに感謝する気持ちが、もう一つはやはり至らなかったところですよね。あれをやっておけばよかったとか、ここが足らなかった、足らなかったとか、やはり何か悔い改めの気持ちも湧いてきます。

結局、私たちは不完全なので、完璧なことは何もできない。ですから、私たちはやはり足らないところも素直に認めて、その気持ちを持ってやっぱり歩んでいくしかない。何に対しても私たちは感謝の気持ちと悔い改めの気持ちの2つを持って、やはり歩んでいく。それじゃないかなと思います。

今日の姦通の女のこの両方の気持ちを、あまりにくっきりはっきり意識で、直前で赦されたという特別な。だからこの後、彼女はやっぱり回心の回心を得て、全く違う人生を彼女は歩むことができる、できるようになったと思いますね。

その原動力は何か。神様に対する感謝の気持ちと、自分がどれほどダメなのかというところから立ち直っていこうとする心の心、感謝と回心の心から、私たちはやっぱり未来に向かっていけるんじゃないかなと思います。
私もちょっと足りなかったところもちょっと反省しながら、そういうものを何か次に生かしていくことができたらいいんじゃないかなと思ってますし、さらに良い支えとしての奉仕ができればいいということを願っています。

皆さん一人一人もこの流れを受けて、信仰生活、教会生活、様々なことがあると思いますが、感謝の内に、あるいはやはり反省の内に、さらに次の一歩を踏み出していくことができたらいいのではないかなと思いますね。最終的に第2朗読でパウロがこう言っているんですよね。

「後ろの者を忘れ、前の者に全身を向けて、神がキリストによって上に召してお与えになる所に向かって、目標を目指してひたすら走る」。だから、過去にとらわれず前を向いて走っていけばいいんですけど、私たちも絶えず、むしろ反省や感謝もしながら前を向いて歩んでいけるようにですね、お互いのために祈りたいと思っています。

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