【ミサ説教】ルカ福音書23章1-49節「終わりのときははじまりのとき」

ルカ福音書23章1-49節「終わりのときははじまりのとき」2025年4月13日受難の主日ミサ カトリック長府教会
十字架にかかったイエス様を見て弟子たちは絶望してしまったに違いありません
ですが、その後のイエス様の復活からほんとうの新たな歩みが始まりました
私たちの人生には幾度も挫折や失望があるでしょう
そのときから新たな歩みが始まるのです
その新たな道を、希望を持って歩んで行きましょう

長府教会でのミサ説教です!
福音朗読 ルカ福音書23章1-49節
〔そのとき、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは〕1立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」3そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。5しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。22ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。30そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
終わりのときははじまりのとき
今日は受難の初日にあたるので、非常に長いイエス様の受難のところが朗読されました。イエス様はこのような形で最後の苦しみを受け、そして十字架上で命を主なる神に捧げたわけですね。その時に弟子たちが、あるいはそこに集まった人たちがどう感じていたか、すべてが終わったって言うかですね、それまでの計画とか、自分たちの行いとかですね、イエス様に従っていて、イスラエルの国を復興しようとか、弟子の中に、中にはそれによって立身出世をしたかった、いろいろな思いがあった。女性たちにしろ様々な思いがあったでしょうが、イエス様が十字架で命を捧げた時に全く何もなくなってですね、全くのゼロになって、それまで積み上げてきたものが全くなくなってしまったという悲しさと、虚脱感と、何とも言えない無力感、そういうものに彼らが包まれたのは間違いないでしょう。
でも、もちろん私たちは今だから分かっているわけですが、それが全てが終わったかのように見えて、でもそこからまた新しいスタートがイエス様の復活の恵みから始まるわけですけれども、でも彼らがその復活の前に感じた虚脱感や落胆とか、もう何もできないというのはですね、非常に大きな苦しみというか、何とも言えない体験だったことは間違いないというふうに思います。
私はここに来る前は、神戸にある六甲教会というところの主任をやっていて、そちらからこちらに来たんですが、今年はですね、神戸市民にとっては非常に・・・私も神戸生まれだから故郷なんですが・・・阪神淡路大震災も30周年だったんですね。
だから、多くの人にとって、30年前とはいえ、大きな区切りというか、非常に節目だったんですね。だから信者さんとか神父さん達と30年前の思い出というかですね、その時のことをいろいろ話したり、あるいは文章で書かれたものも幾つか出てきたんですけれども、非常に感慨深い年ではあるんですが、その中で一人の神父さんが神戸市内の小教区出身の人で、その神父さんはその教会に子供の時からずっと通っていて、侍者をやったりですね、教会学校に参加したり、そこでいろいろ青年の集まりもして、その教会で育てられて、彼は神父になったんですが、その教会が震災で全く壊れた。
それも一昔前のゴシックの非常に美しいレンガ造りで、ステンドグラスもいわゆる古典的な美しい教会ですが、子供のころから慣れ親しんだ教会が、建物がですね、とにかく全く崩れているんです。それは彼にとって信仰の危機だったと言っていました。今までの自分を育ててもらったものとか、思い出とかですね。教会のイメージ、綺麗でステンドグラスがキラキラ光っているとか、子供の時からずっと通ってた。それが一瞬で全くなくなったので。でもそれは自分にとって自分の信仰がもう何か今まで積み上げてきた全部ゼロになるようなですね、非常にショッキングな体験であるというふうに言ってました。
でも、彼が言うには、それはやはり神のみ旨だったっていうふうに思うと。つまり古いものが全部なくなってしまったからこそ、神父として、信者として新たな出発をやっぱりしなきゃならないという気持ちになって、そこから当時の大阪教区は新生計画として新たに生まれる新たに新生計画を立てて、そこから再出発をすることになるんですが、その神父さんにとっての再出発だったんですよね。
結局その教会は立て直されなかったんですね、統合されて。だから壊れたままで終わってしまって、新たな3つの教会が統合された一つの教会に、つまり3つとも壊れちゃって、何もなくなったから、それを機に一つのね。だから、その教会が震災で潰れて終わっちゃったんですけども、でもそれはその震災にとっては新たな出発。そこから自分の本当の信仰を掴んでいく一つの歩みのスタートだったと、そういうふうに彼は言っていました。
新たな出発で何が大事だったかといったら、彼によるとやっぱり神さまと人との生きた関わり、それこそが自分の信仰を養う最も大切なものだってことを改めて彼は悟って、そこから聖書を読み直したり、信者さんと分かち合いをしたり、新たな教会作りと共に自分の信仰を立て直していく一つの出発になった。
だから、それは古いですね。美しい教会が壊れたことは、自分にとってやっぱりみ旨だったというふうにおっしゃっていました。多かれ少なかれ、この教会を建てて20年ぐらいですか、20年か30年ぐらい、いや、ここに来てから今の津波が来たらどうしようかなという気がするので、もしかしたらこの教会もいつ潰れるか、今の時代もちろん分からないんですけど、潰れないように願いますが。でも、皆さん一人一人、別に教会がどうだったとしても、何かやはり失うことはあるでしょう。家族が病気だったり、家族を亡くしたり、あるいは自分自身が病気であったり、あるいは自分の生き方のステージが変わって、今まで大事にしていたものがなくなってしまうということは、人生でも度々あることでしょう。
でもそれはいつもいつも新しい出発が待っている。イエス様の十字架を通して復活の恵みがあるということは、私たちにいつも新たな希望を示してくださっていることではないかと思います。私自身も神戸生まれの神戸育ちで、神戸大好きなんですけど、でも突然の辞令というか、こちらに来る事になってですね、やっぱり慣れ親しんだものからも全て離れなきゃならない寂しさとか、小さな痛みをもちろん感じながらこちらに来たわけなんですけど、でもそれは私にとって、やはりここでやっぱり新たなスタートというか、出発をしていく。そのために神様がやっぱりこちらに派遣されたのではないかというふうに個人的には思います。
この4月はやはり皆さん一人一人の卒業だったり、入学だったり、自分のステージが変わる方々もおられるでしょう。やっぱり私たちは何か過去のものにとらわれるより、それを置いてですね、やはり神様が示す新たな出会いや新たな関わり、そこから私たちは希望を持って歩んでいく。その新たな魂をやっぱり出発していくことがいつでもできるんじゃないかなと思いますね。
信仰というのはいつも希望、希望に支えられているものですから、単に過去を懐かしむよりも、未来に向かっていく。それは何かが無くなることによってこそ現れてくる大きな恵みが、私たちの信仰生活にはあるということですから、それに向かって私たちは歩んでいきましょう。
ちょうど今年は聖年の年で「希望の巡礼者として歩む」ということですから、私たち一人一人が希望を持って歩んでいけるように、教会全体としてもそうですが、一人ひとりが希望を持って歩んでいけるようにですね、イエス様の受難を通してこそ、大いなる希望に向かって歩んでいけるように、心を込めてですね、共に祈りを捧げたいと思います。
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