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【ミサ説教】マタイ福音書5章38-42節「本当の癒しは」

hanafusafukuin

マタイ福音書5章38-42節「本当の癒しは」2025年6月16日癒しのミサ、釜ヶ崎旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

本当に大事にしていきたいことがあるなら、人は自分の困難も厭わずに強くなれます。本当の癒しは、最終的には困難を突き抜けて神についていく強い信仰を持つことでしょう。
私たちもパウロのように覚悟を持って歩んでいきましょう。

旅路の里の癒しのミサでした

マタイ福音書5章38-42節

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

本当の癒しは

今日の福音書は割と有名な箇所ですね。マタイによる福音書の右の頬を打つなら、左の頬を向けなさいという有名な、たぶん聖書の言葉で最も有名な言葉じゃないかなと思うのですが、最も有名だけれど、最も実践するのが難しいと言いますかね、右の頬を打たれてなかなか左の頬を出すというのは、そんなに簡単にできることではない。

殴られたらそうだね、この野郎と言って殴り返すというのが殴り返せなくても怒ったりするのが、あるいは少なくとも1発撃たれたら2発目は受けないように防御するというのが普通なわけですけど。でもイエス様の教えはちょっとレベルを超えてますよね。
右の頬を打たれたら左の頬も出せという。

なんでこれができるのか、どうなのかということですけれど、やはり神様を信じるというか、何かこう何かもっと大切なものがあると、こういうことができなくもないですね。

ここを読んで一番思い出すのは、フランシスコザビエルが500年ぐらい前から日本に来て、それでもって人々にキリスト教を初めて伝えたんですよね。
で、その時にそ山口だったと、僕のいる山口県のところだったと思うんですが、彼じゃなくて一緒に来たブラザーだったと思うんですよね。ブラザーフェルナンデスだったかな、何かが辻説法と言って、路上で道路に別に教会もないからそこで説教してたんですよね。

みんなが野次馬が集まってきて話を聞いてて、一人の人が馬鹿にして唾を吐いて唾を吐いたのが右の頬についてですね、彼は何事もなかったようにそれをハンカチで拭いて、そのまま説教を続けてやったんですよね。

それを見たお侍さんがこの人は本物だと。唾まで吐かれても全然怒らず、全然気にせずにですね。それで説教を続けたので、それで感動して、その一人のお侍さんが彼のところに行って洗礼を受けた。それが多分第1号だったと思うけれども。

だからこの右の頬を打たれても気にしないで生きていくっていうのは、何かこう、もっと何か自分が大事にしたいものがあって、それをこうやっていこうとする時に、実際そういうことができるっていうか。
だから何か生きていく次元がちょっと違うようなことになったら、それができるわけですよね。

他の例で言ったら、クリスチャンじゃないんですけど、インドの独立の父のガンジー。ホンマにレベル超えてて。
ガンジーが何がすごかったかと言ったら、インド全体がパキスタンを含んで、全部イギリス大英帝国の植民地だったんですよね。それで彼はそれを覆すためにどうしたかと言ったら、鉄砲、つまり武器を取って戦わないで、いわゆる非暴力を貫いて非抵抗運動をして、それで、だから本当に右の頬を打たれても左の頬を出していく。
そういう気持ちで彼の信奉者たちがみんなでデモをしたり、いろいろ抗議をしたりして、それで結局。歴史上の本当の奇跡の一つだと思いますけれど、それで独立したんですよね、植民地支配から。

だからやっぱり何かこう、本当に大事なものがあって、それをやっていこうとする時に、これができるというか、こうせざるを得なくなっちゃうところがある。

だから、私たちがどれだけ本当に何を大事にして、どのように私たちは生きようとしているのかという、この前向きの姿勢と、やっぱりそれを成し遂げたいと思う強い気持ちみたいな、それが信仰ということでもあるし、自分に与えられた使命を果たしていこうとする、そういう気持ちがある中でこそ、これが実現して実現していくんじゃないかなと思うんですよね。

だから、この第1朗読は、本当にこのコリント人への第2の手紙、パウロは結局こうだったんですよ。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓、そんなことがあっても、別にそれに仕返しをするんじゃなくて、それに対して純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって、そういうものに対して神に仕えている姿を示しているというわけですから、まあ、どれだけ神を、何か、私たちの心のおきどころと、この物事の見方、それを私たちに結局問いかけられているということですよね。

だから、小さいところでできるとかできないとかって言うんじゃなくて、自分にどこにポイントを置いて、何を大切にして生きているかということを、やっぱり結局問いかけなきゃならないんだと思うんですよね。

でも実際ね、右の頬を打たれるっていう、大体困難なことっていうのは、単発で来ることもあるけれども、ダブルで来ることも実際多いですよ。本当のところは。
何か病気になったら次々病気になったり、あるいは家族の問題を見たら、また次に何か別の問題を見て、だから右の方が打たれて、左の方まで来ることなんてしょっちゅうあるんですよね。
だから、右の方を打たれて、そんでもって、もうそれで嫌になって、それから逃げようとかって思ってると、また結局次のものにやられちゃう。

だから右を打たれた時に左の頬も打たれていいって思うぐらいの強さというのかな、何かそういうものを持って私たちが生きていくときに、むしろ道が開かれるといいますかね。

だから僕はこうやって癒しのミサでね、大体ここでやる説教は癒しのお話を意識して話していますけれど、本当の癒しは他から殴られなくなることじゃないんですよ。殴られてそれで傷でもそれでそれが癒されるようにとか何とかとかじゃなくて、殴られたっていいっていう強さを持てるかどうかなんですよね。
強い心を持っているのが一番の癒しだと思うんです。本当のところは。

2発目3発目であってもOKというか、一回ぐらい病気になったから、それでどうのこうのと。次の病気が来ようが、次が来ようが構わない、自分はイエス様に従って生きていくんだという、そういう強い気持ちでもって生きていけるか、そっちの方がよっぽど大事って常々思いますよね。

苦しいことなんか次々来るんだから、どうせ。それをいちいちそれに振り回してもそれがなくなるようにとかっていうよりは、そんな突き抜けて自分はこうだ、神様は信じて、こう行きますという、そういう何とか強さっていうのかな、人間の神から与えられる強さを持って切り開い、切り開いていこうってする、そういう前向きの気持ち。

それがあるから、右の方を打たれようが、左の頬を打たれようがなんだって、自分はイエス様の道を歩んでいくんだという、あるいは道であろうと、とにかく行くんだということなんですよね。

だからもうパウロはすごいですよね。栄誉を受けようが、辱めを受けようが、どっちでもいいと。
神に仕えていく道は変わらない。だから、人が悪評を浴びて人から非難されようが、人から褒められようが、どっちでもいいって思うわけですよね。
そう、人に、人に欺かれているようで不誠実だ。で、人に知られていないようで知られて、死にかかっているようで生きているという、この見ている世界というか、立っているところが違うわけですよね。

それを私たちが生きられるかどうか、ぐじゃぐじゃいうよりは、覚悟を決めて、イエス様に従って生きましょうっていう、それでOKでしょう、という気持ちなんですよね。そうしたら、少々小さなことは吹っ飛んでいくし、振り回されない。もういちいちああだこうだと、こっちの人からこうだったから、こうだったらこっちから働こうとフラフラぐらぐらやっていたら、いつまでたってもどこにも行かないみたいな感じだから、スパッとこう道を決めて、こんなんなんか、どうせ困難が来るのは当たり前なんだから、受け止めて歩んでいきましょうと。

イエス様はその道を歩まれたから、私たちもそれに従って歩んでいける。そういう気持ちで行きましょう。
ついつい私は弱気になったり、あるいはカーッときて、もうなんや、こんちくしょうとか、いろんな気持ちが湧いてくるけれど、まあ、そんな横において神様に従っていく。

そこを大切にしていきましょう。もちろん、くじけたり、振り回されたり、それだってもちろんしゃあないけれども、でもやっぱり心を戻して、イエス様に従ってついていきますと、どんな困難があったって行きますという、その気持ちを大事にしていきましょう。それこそが本当の癒しというか、私たちに与えられている救いだと思いますから。

神の恵みに支えられ、支えられながらですね、私たちがすっきりと前に向かって歩んでいける、その恵みを願いたいと思います。

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