【ミサ説教】ヨハネ福音書3章13-17節「永遠の命に至る準備」

ヨハネ福音書3章13-17節「永遠の命に至る準備」2025年9月14日年十字架賞賛カトリック長府教会
人生の最後の20年間、多くの人にとって、引退した老後の20年間は永遠の命に入るための準備期間だと言えるでしょう。人が大人になるのと同じくらいの準備期間が与えられているということです。そして命のバトンを後の世代に渡しきって永遠の命に入るのです。歳を取ると十字架は増えますが、十字架を超えてこそ復活があります。十字架の勝利を信じて復活の愛を分かち合っていきましょう。

今日は長府協会では敬老のお祝いのミサだったんですね。
福音朗読 ヨハネ福音書3章13-17節
13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17:神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
永遠の命に至る準備
イエス様が今日の福音書でも永遠の命ということを強調しておられますけれども、私たちが生きているこの命というのは、一つの2つぐらいの法則があると思っているんですけれども、一つの法則というか、それは何かと言ったら、簡単に言えば、私たちは死んでしまう存在であるというですね、生まれた以上死ななければならない、全員ですね。というはっきりした法則の中に私たちが生きているということですね。
だから私たちは避けられないのは、年を取るということと死ぬこと、場合によっては病気をするということがありますけれども、それは避けられないものだということですけれども、でも、やはり避けられないものでありながら、それが迫ってきた時に私たちは複雑な思いになることが多いわけですけれども。
でも、その私たちの命を大体分けて考えてみると、ざっくり分けたら、生まれてから20年ぐらいは育てられるかというんですかね、お恵みを受けたり、成長したり、学んだり、何か周りの人にいろいろ世話をされたりして、大人になっていくのがだいたい20年ぐらいかかる。もちろん差はありますけれども、その後の40年ぐらいは大体は逆に産み育てるが、育てたり、助けたり、働いたり、それがほぼ40年ぐらいは働く側に回るわけですけれども、そして、いつかは特にはっきりしているのはサラリーマンの方でしょうけれども、いつか仕事を引退する時が来て、そうすると、残りの20年ぐらいは年を取る老齢期というか、高齢期が20年ぐらいあるということで、だんだん衰えていく時期が20年。
ざっくり言ってですね、合わせて80年ぐらいの人によって長さは違いますけれども、やはり私たちが今日は高齢者のためのお祈り日ですけれども、最後の20年とはいったい何なのかということですね。
この働き盛りの40年ぐらいまでは意味がありますけれども、その後の高齢期ですよね。昔はもうすぐ短かったという高齢期が短かったし、少なかったし。けれども、今やこの高齢期の最後の20年が長くなるし、人も多くなるし、いわゆる高齢化社会になって、何のためにこの最後の20年が私たちに与えられているのかということなんですよね。
私たちの命の中の命で考えたらあまり意味がないというか、意味づけをなかなか難しいですけれども。
でも、イエス様はすごくはっきりしていて、イエス様はこの世の命の話を一回もしていないではない。
東日本大震災の後の福島のこととか、いろいろですね。あの時に聖書を読み直しましたけれども、いのちに関するお話を読み直したんですけれども、この世のいのちに関してしゃべっているところはほぼない。つまり、健康を大事にしなさいとか、何か体に悪いものを食べないようにしましょうとか、今の一般的に言われるいのちを大切にするという話はほぼ0ですかね。
ほとんど何もないんですよね。
イエス様が言っている話のほとんどは、今日の福音書もそうですけれども、永遠の命なんですよね。永遠の命が大事だということもたびたびたびたび何回もイエス様は語られているんですね。ものすごくはっきりしていて。
でも私たちはテレビとか見ていたら、この世の命をどう大事にするかという話ばかり。
健康に食べ物とか何とかかんとか、そんな話ばかりだよね。運動が大切ですとか、そんなことばかりですけど、でもイエス様の中には0ですよね。
イエス様の話の中にあるのは、永遠の命のお話しかほとんどしていないですよね。
永遠の命がいつ私たちにそれがつかめるかと言ったら、亡くなってからですから、死んだ後ですから。
だから、私自身が思っていることは何かと言ったら、ここ20年、40年、20年、最後の20年はいったい何なのか、この世的には説明できないんですけれど、クリスチャン的にははっきりしていて、最後の20年は永遠の命に至る準備が20年かかるということです。それに、どう私が備えていくか。
つまり生まれてから働き出すまで、なんと20年かかるわけですよね。人間の成長って、びっくりするほど早いような、遅いような。20年ぐらいかかって、やっと社会で働き出されるわけですから、永遠の命の準備も20年ぐらいかかりますということですね。
だから、高齢期の一番の仕事もはっきりしていると思います。
永遠の命に至る準備をどのようにしていくかってですね。
しかも20年分あるんだから、どれだけそれをしっかり私たちがやる時間が与えられているかということですよね。その永遠の命に至る。
でもそれはもうイエス様が、この今日はニコデモの話ですけど、話の前半ですよね。もうはっきりしていて、ニコデモにですね、人は新たに生まれなければ永遠の命に至らない、神に至れないということを言っていて、ニコデモがこの年取ってもう一回生まれるんですかという、ちょっと話が食い違って違っているんですけど、でも、はっきりしている。私たちが死ぬということは、新たに生まれるということとしか思えないですね。
永遠の命に至るために、新たに生まれるために、私たちは死ぬと、この世の死を通らなければならないということなんでしょうね。
それを私たちが20年かけて準備して、新しい命に入れるかどうか、永遠の命に委ねるかどうか、どれぐらいそれを私たちが全然テレビとかで言わないから仕方がないですけれども、そんなに20年も30年と言われて、ものすごく長い間、高齢の期間が与えられていて、だんだん仕事もできなくなって世話になるばっかりになるわけですけれども、やっぱり永遠の命に至る準備をどれだけ私たちはちゃんとしなきゃならないのかということですよね。
自分のこれまでの生き方を振り返ったり、自分がとらわれているものは何なのか、自分がどういうところに罪があるのか、あるいはどういう恵みを受けて、どういう心がけで、やはり最後は神のもとに帰るかということを、本当に1年1年、それを積み重ねていくという意味ですね。
その準備の期間が、神様がこんなに長く与えられてくださっているんだから、それをどれだけ私たちがしっかり受け取るかどうか。高齢期の本当に大きな課題だと思いますね。
若い時の仕事でいっぱいですからね。家族のこととか、仕事のこととか、何かやらなきゃならないことがいっぱいあるから、そんなことを考える余裕がないわけですけれども、でも、年をとっていろいろなものに対してできなくなったからこそ、私たちは本当の意味で神の国と永遠の命、新たに生まれていくということを真剣に考える時間がたっぷり与えられるわけですよね。
場合によってはちょっと頭の力が弱くなるから、考えると弱くなりますけど、でもそれは考えることじゃなくて、心の準備をどうするかということですよね。
それとともに、命の第2の法則というのがあってですね、それは何かと言ったら、第2の法則は、これはもうほぼ決まりきっているものなんですけど、命というのは自分の命のことだけじゃなしに、植物、動物全部そうですけれども、次世代に向けて命をつないでつないでいくために命はある。
だから結婚して子供をつくって、子孫の私たちの命も、父親、母親、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、おばあちゃんがいたから、私たちの命がつながっているわけで、私たちは命のバトンリレーをやっているんです。本当のところは、私たちの命は自分のためじゃなくて、次の世代のためなんですよね。
でも、鮭にしても何にしても、とにかく次の命を次の命に向かうときに、次の世代に向かうときに、その今の世代が亡くなって、次の世代につないでいるわけですよね。次の世代も次の世代につないでいったら命が終わるわけですから。
だから、私たちは次の世代のために今も命があるんですよね。具体実際的に子供とかお孫さんがいれば、そこにつないでいくわけだし、私みたいに結婚してなければ、それは肉親のためじゃなくなくてもやはり子供世代、孫世代下の世代に私たちの命をつないでいく責任があるから命が与えられているわけですよね。
それも私たちは真剣に。だから私たちの命は次の世代にバトンタッチしていくわけですから、私たちは何を次の世代にバトンタッチしていくのかという、そのんですかね、心がけが私たちに必要だし、私たちが本当に引き継いだらもういらない。
今あるものを引き継いだら、もう天国というか、引き継ぎきれていなければ、ちょっとまだ神さんがもうちょっとこっちで。
だから、高齢期が長くなっているのは、引き継がなきゃならないものがいっぱいあるのに、引き継げてないからじゃないか。若い世代とか次の世代に向かってですね、やはり多くの愛や、あるいは何かいい気づきとか、人生の大切な経験がいっぱいあって、プラスもマイナスもそれを次の世代につないで、彼らがよりよく生きるためのバトンタッチを終えたら、もう私たちはいらないということだと思うんですね。
それはもう動物、植物、人間全部そうなんですよね。生命はバトンリレーしているだけなんですよ。だからバトンを渡せば、それでも私たちの使命が終わるわけですけど、バトンを渡し切らないと。次のステップに私たちはいけないということかもしれないんですね。
そのためにこそ、やはり今日は十字架の神秘がある。
やはりイエス様の十字架の神秘は、やはり復活の命を示しているから。
今日は十字架、称賛、十字架の勝利をお祝いする日なんですよね。
十字架のこの世の意味は、この世の命が終わると思いですからね。死ぬという、でも、なぜ十字架が勝利になるかといえば、復活の愛があるからですね。復活の愛は私たちの永遠の命への愛でもあるし、復活の愛は自分のことだけじゃなしに、やはりバトンタッチしていくからこそ、2000年間、イエス様の復活の愛が次の世代に次の世代に渡されているからこそ、信仰が継承されているわけですよね。
でも、十字架があるからですよね。私たちが本当の意味で年をとればとるほど、普通十字架が増えてくるのが普通ですからね。体のこととか、友達減るとか、仕事ができなくなるとか、周りの人に迷惑かけなきゃならなくなるとか、十字架が絶対増えてくるのが普通ですから。
でも、十字架を超えた復活の愛があるからこそ、私たちは希望を持って歩んでいけるわけですね。永遠の自分の永遠の命にしてもそうですし、次の世代にも子供世代、孫世代に向かって復活の愛が伝承されていく。だから十字架が勝利なんですよね。
それを私たちの心に刻んで、やはりこの高齢者の敬老の日を迎えたいと思います。
老人を敬うだけじゃなしに、やはり僕は生命の神秘、イエスさまの復活の神秘があってこそ、やはり歳をとるということの本当の敬いの心が湧いてくるんじゃないかって思いますね。
すでに高齢期に入っている人と、これから高齢期に入る人しかいないわけですよね。誰しもそれを今迎えるか、そのうち迎えるか、2つだけですから、やはり与えられている自分自身の命をしっかり受け止めて、自分の今立っている、置かれている場をしっかり認識して、この命を無駄にしないように、十字架から逃げないように、復活の愛を分かち合っていけるようにですね。このミサで祈りを捧げましょう。
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