【ミサ説教】マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」

マルコ福音書 8章11-13節「しるしをどう受け止めるか」2026年2月16日カマのミサ旅路の里
人は神のしるしを求めますが、大切なのはそれをどう受け止めるかです。奇跡だけでなく、喜びも試練もまた神からのしるしです。ヤコブの手紙は、試練を喜びとし、貧しさも富も信仰を深める機会だと語ります。恵みは与えられていても、受け取る心がなければ実りません。日々の出来事を神のしるしとして受け止め、成長の糧にする姿勢が求められています。

宝くじ、買おうと思っていたけど・・・
福音朗読 マルコ福音書 8章11-13節
(そのとき、)ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
しるしをどう受け止めるか
今日のイエス様のお話は、しるしというユダヤ人は特に神様からのしるしをしるしというのは、何か奇跡的な何か出来事みたいなことですけど、そういうものを求める、そのような体質というものがあったような感じですね。一番大きなしるしは、このユダヤ人のもっとまた前の話ですけど、エジプトで奴隷状態になっているところからモーセという預言者の導きによって約10ぐらいには渡る様々なしるしというんですかね、いろいろあって、それでエジプトから解放されたということがあって、そこから非常にしるしを大事にしていたということはあるんですけれども、ただ、ここでですね、このファリサイ派の人々って、イエス様と対立する人々ですけど、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めたっていうから、何かちょっとしるしの求め方がおかしいっていうか、それでイエス様がしるしを与えられないと、今の時代の人々にはあったことをはっきり言うわけですね。
だから、イエス様、実はこの読んだのがマルコの11章なんですけど、この前の話かなにかと言ったら、4000人の人にイエス様が7つのパンを裂いて渡して、みんなが満腹したって、まさしくそれは大きなしるしなわけで、イエス様は大きなしるしを実際行っているわけですけれど、でも結局、しるしをどう受け止めるのかという、この人間の心っていうか、それが結局、信仰ということになるんですけれど、神様のしるしがあって、それを私たちがそこを通して神を信じて、そこから何かこう何かこう恵みを得て成長していこうとするかっていうしるし、プラスそれを受け取る側の人間の態度と両方がやはり合わないと、実際ダメなんですよね。
ここで村の人々がしるしを求めていたら、何かイエスにケチつけるために、イエス様のやっていること、今でも本当かどうかわからないですけど、いろんな奇跡的なことをやる人がいたら、だいたいみんなインチキだとか手品だとかいう、まあそれはそれを信じるか信じないかで全然話が違いますけれども、いろんな時々は新興宗教の教祖みたいな人ってのはびっくりするぐらいなことする人、時々いないでもないんですよね。特にインド系のね。なんかの人は。だいたいそれはなんか結局ネットがネットか何かで流れたらインチキだとか嘘だとか、それをどう受け取るかあったことの問題になるわけですよね。
私たちに与えられているしるしを、私たちはどう受け止めていくのか。どこにしるしを見出して、どこでそれを私たちの成長の糧にできるかどうかということなんですよね。
だいたいしるしには2つあって、当たり前ですけど、いいことを通してしるしが与えられた神の恵みだな、こんなことがあったなとか、助けられたら、それも一つのしるしですけど、もう一つのしるしがあって、やっぱり苦しいこととか困難なことが私たちのしるしになることもある。
だから私たちは2つのしるしを受け取らなきゃならないんですよ。
人生の中で難しい問題とか、何か起こったところからしるしとして受け取っていく。もう一つは、本当にお恵みっていうのはいいことを通して、それも何か単なるラッキーということで済ますのではなくて、それを通して神に感謝していけるかどうかってことなんですよね。
今日の第1章がヤコブの手紙なんですけど、すごいですよね。最初、私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさいって書いてある。試練がいろいろあって、人生には困難なことがあるけれど、この上ない喜びと思いなさいって言ってるんですよね。
これ、しるしだからなんです。神からのしるしとして与えられているから喜びなさいと。
なんだか信仰が試されるから、そこから忍耐が生じるって言うんですよね。忍耐が生じて、そこから完全で申し分なく、何ひとつ欠けたところのない人になりますからっていうふうに言うわけですよね。
だから悪いことがあるから、だからそれは神さまから呪われてるとかじゃなくて、悪いことを通して私たちはその成長していける、信仰的に考えてね。だからそれはしるしだということなんですよね。面白いですけど。その後、こういうところもあって、貧しい兄弟は自分が高められることを誇りに思いなさいって書いてあるんですね。
だから貧しさがしるしだと言ってるわけですよ。
だから普通、貧しいとお金もなくても困ってどうしようかなって。どっちかというと悪いものだと思うけれど、でも貧しさのしるしだって言うんですよ。貧しさを通して、神の恵みの中で高められることがある。
本当の意味でそれを誇りと思えっていうんだから。こう思えたら本当に素晴らしいなと思います。
次がまた傑作で。富んでいる人。
ヤコブの手紙ってね、実はお金持ちに厳しいんですけど、富んでいる人についてはですね、自分が低くされることを誇りにせよと言っているんですよ。だから、この富とかお金持ちっていうことは、実はヤコブからしたらマイナスのしるしなんですよね。
普通だからお金がガッポガッポ入って、それこそ神様から祝福されると思うんですけど、そうじゃないんですよね。お金持ちとか、金がいっぱい入るのは、実はマイナスのしるしなんだ。あとがすごいんですよね。富んでいるものは草花のように滅び去るからですって書いてあるんだけど、そのあとなんですけれどもね。日が昇り、熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさを失せてしまいました。今の日本の夏も暑いですけど、イスラエルの中には夏というものが乾燥していますから、熱風がバーッと夏なんて熱風が吹いたらもう全部彼じゃ草とかなんか全部枯れちゃうんですよね。
金持ちはそれと同じなんだっていう風に変えれていて、同じように富んでいるものも人生の半ばで消え失せてしまうのです。って書いてあって、お金持ちがいかにむなしくてはかないものなのか、みたいなね。
実はヤコブの手紙、すんごいお金持ちに厳しいんですけど、だからお金があるってことは全然プラスのしるしじゃなくて、マイナスのしるしだから気をつけろと言っている。
だから私たちは本当にこの人生でさまざまな嫌なこともあれば、いいこともある。両方もちろんあるわけですけれど、両方をちゃんとしるしとして信仰の上で受け止めた時に、そこから私たちがどう霊的に成長していけるかどうかということを一番考えなさいと。そういうしるしが私たちに与えられている。
だから、何か特別な目立つことがあるとかないとか、というより、私たちが日々の生活の中で出会う喜びだったり、辛さだったり、それをどう主として私たちが受け止めていけるかということが実際に大事なことなんですよね。
富の話でしたら、よく言われることですけれど、宝くじで当たる当たって、今だったら1億円とか、下手したら2、3億円が3億円ぐらいもらえることがあるんですけど、だいたいね、不幸のしるしなんですよね。
宝くじ当たって1億円、3億円もらって幸福になる人がほとんどいないって言われていて、もう舞い上がっちゃって、それでもバカスカお金使ったり、あとから周りから変な人集まってきて、何とかして結局真面目に働くのがバカバカしくなって、仕事もやめて何もしないという人がほとんどで、とにかく宝くじをみんな買ったら、それはなんかいいと思ってみんな一生懸命買うけれど、宝くじに当たる人は、実は不幸の印をもらっているしか実はないんですよね。
地道にお金を貯めて、お金持ちはともかくもっとお金が入っていって、それはもう全然その人の人生が滅びてしまうということがよくあることなんですよね。なかなかね、難しいですよね。時々、時々その宝くじで当たった人がそのお金を資本にして、次の人生のステップに歩める人はごく少数はいるんですけどね。だから、そういう人は本当にそのしるしをちゃんと受け止めて、自分の糧になることを、そのお金を使って投資をして、それから次のステップを歩むという人も実はいるんですよね。
だからね、こういういるしを私たちはどう受け止めていくのかっていう、それはなかなか難しいですけど、この後のお話がまた傑作で、この後に実はイエス様がいろいろ弟子たちを注意する話で、結局そのパンの増加の時に残ったパンくずがいくつなのかって、4000人のところが7つのパンくずが残るんですけど、
それでお前たちはまだ悟らないのか。実は弟子たちが怒られている。だから弟子たちもその印をもらっているんだけど、しるしの意味がわかってないんですよ。だからもうイエス様、すごい怒って、お前らわかってないのかっていうか、このちょっとめちゃめちゃ怒っている話がこの後に続くんですけど。
だから結局私たちは本当に神様からのメッセージとか、神様がどう思ってるのかしっかり受け止めない、受け止めない限り、いいことも悪いことも、何かもうごちゃごちゃのまま流してしまう。そういう無駄なことをしているということに、弟子たちもなかなか分かってないのね。このファリサイ派も分かってないけど、実は分かっていない。
本当のしるしの意味をですね、それはイエス様が十字架にかかって復活して、やっと弟子たちの方は、聖霊の恵みの中で、そのしるしの意味がだんだん分かってきて、イエス様のなさったことが、意味がだんだん分かってくるんですよね。
だから、なかなか時間のかかることですけれども、私たちは大きな恵みを与えられている。
様々な形で恵みを与えられていますから、その恵みをしっかり受け止めて、やっぱりそのしるしを本当に神様のしるしとして受け止めて、それを生きていく中で、それが本当に生きたしるしになっていくということですね。それを本当にしっかり受け止めていきたいと思います。
ミサでパンとぶどう酒をね。聖変化して、それもイエス様のお体としてみんないただくんですけれど、それだってね、ただの何かの後で食べるだけだったら、やっぱりそれもしるしとして意味がなくて、本当にイエス様の体としていただくから、本当のしるしになって生きていく力になるんですけれどもね。
だから、本当に大事なのは、信仰のあり方というか、私たちの心のあり方が、神の与えている恵みを受け止められるだけの器が私たちにない限り、恵みが無駄づかいというか、生かされないということなんですね。それを心がけましょう。
ちょっと釜ヶ崎の話をすると、ここにはしるしがいっぱい与えられているんですよ。なかなか他で味わえないしるしが、実はいっぱい与えられている恵みの恵みの場所だと思います。けれども、非常にあり得ない不正とか不正義とかあります。でもやっぱり人の善意とか素晴らしさとか人情とかいっぱいあるんですよね。
それは私の日常生活でもそうですけど、そういうしるしをしっかり受け止めて、それを私たちの生かして前に行く力にできるようにですね、恵みを願いたいと思います。
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