【ミサ説教】マタイ17章1-9節「主の変容」
マタイ17章1-9節「主の変容」2008年8月6日 シスターの黙想会 青森
17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
今日の福音書はいわゆるイエス様がご変容をされた、というところです。
ペトロと、ヤコブとヨハネを連れて高い山に登った、この高い山というのがタボル山だという説もあれば、ヘルモン山だという説もあります。そこで、その、高い山の上で、イエス様の姿が、輝きだしたわけですね。顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった、ま、イエス様の神様としての姿がその時はっきりと顕れていたのだろうと思われます。ペトロはそれを見て、何を言ったらいいのかわからなかったので、仮小屋を三つ建てましょう、というわけですが、なにかそういうものに触れたときに、小屋のようなものを建てて、まあ、記念したい、というかですね、お祝いしたいという気になるのかもしれない、なにかかたちあるものにしたいという、なにか、人間としての気持ちかもしれない。
そこの海岸沿いにある公園に行ってみたら、けっこう銅像とか、記念碑があったりするんですが、ああいうものを建ててもまったく意味がないというか、結局誰も見てないし、記念碑にしろ、銅像にしろですね、建ててるだけで、まあ、建てた時に意味があったかもしれないですけど、まあ、それぐらいなものでしかないわけで、わたしたちが、神様と、イエス様と関わるときに、実際にそういうかたちある記念碑をつくって顕彰したり、お祝いしたりしても、実際は仕方ないわけですね。
わたしたちがもっと大事なのは、生きた神様と日々どのように交わっていくか、ということで小屋を建てたり記念碑を建てたり、場合によっては教会を建てたりということもあるかもしれないんですけど、そういうことを求められているわけではない。
やはり、生きた神様との交わりに私たちはいつもいつも招かれている。だから、ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆って、御父の声が聞こえたわけです。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、これに聞け」と。これはイエスの洗礼の時の言葉とまったく同じものですよね。その、愛する子、わたしの心にかなう者、イエス様にですね、これに聞け、とペトロに言われるわけです。
わたしたちもイエスの姿の中になにを見るのか、それは御父から示された神の愛、それに触れてそれを観想し、それに聴くわけですよね。その、イエス様と、イエス様の中に脈々と流れている御父の愛ですよね、それをわたしたちはいつも触れて、そこから力をいただいて、そしてそれを生きていく、その生きた交わりこそがわたしたちを生かしていく本当の力だと思います。
わたしたちが黙想の中でしている営みというのはまさしく、この、イエス様との交わり、そこから力をいただいて、そのイエス様に聴いて、そしてわたしたちが変えられていく、そういうものであろうと思うんです。
イスラエルの巡礼に行った時に、タボル山の山の上にあるんですよね、その、主の変容教会、というのが。個人的には、そこはあまり、インスピレーションが強くあったわけではなくて、タボル山とヘルモン山と両方説があるということで、どっちかというと、イエスが変容したのはヘルモン山のほうではないかとその時は思ったのですが…タボル山のほうはそれほど神秘的な感じがあったわけではないんですが、その、変容教会の、山の上にある教会の中で、まあ、他の人たち、他のグループもいっぱいいたわけで、そこで、ふと、神様に聞いたんですよね、「主の変容とはいったいどういうことなんですか」って…雰囲気的にあまりぴんとこなかったんで、主の変容とはどういうことなのか教えてくださいと、心の中でお祈りしたんです。
その御聖堂にいる時に。そう祈った瞬間、ふっと前を見たら、まあ、かなり大きな御聖堂で、前の方で、ちょっと下の方なんですけど、祭壇があって、そこで別のグループがミサをたてていたんです。わたしが、主の変容ってどういうことですか、と祈った瞬間に、はっとそのミサをたててるグループが見えて、神父さんが高くホスチアを挙げているところだった…それで、そうか、と思って…。やはり、主の変容ということは今日も起こっている、ミサの中で。イエス様がキリストのからだ、ということでパンを聖変化された、それこそ、変容ではないか、と、その時強く思いました。
結局、変容ということは、これ一回限りのことではないと思うんです。ミサのたびにただのパンが御聖体に変えられていく、そしてそれをわたしたちがいただくことによって、わたしたちも、この、主の、キリストのからだに変容させられていくんだと思いますね。祈りや礼拝を通して。
そして、昨日、一昨日と話したんですが、結局キリストは貧しい人にも変容されて、苦しんでいる人や小さな人々に変容されて、わたしたちの前に現われてくることもある。そして、その苦しんでる人々と関わることによって、やはりわたしたちは変容した主をいただく、というですかね、交わることができるんじゃないかと思います。
そして当然、教会とか、教会共同体そのものがキリストの体であるというならば、わたしたちの共同体もキリストのからだへと変容されていくんだと思います。神の恵みに満ちたものにですね。まあ、わたしたちひとりひとり、そしてグループとしても、罪深さや、人間的な弱さをかかえているわけですが、しかし、わたしたちが本当にイエスに聴いていく時に、イエスの恵みをいただいていく時に、イエスに従っていく時に、わたしたちも変容されていく。ひとりひとりが変容されていく。そしてグループとしても変容されていく。
もちろん、完全な変容は、神の到来、世の終わりでしょう。
わたしたちは今日も、これからも、その、神の恵みによって変容されつつあるんだと思いますよね。変容されつつ、ある方向性に、なんというか、こう、向かっていくというか、その、神との生きた交わりを絶えず生きていく必要性があると思います。
変容された主に、わたしたちはどこででも出会うことができるし、そして、その変容された主に出会うことによって、わたしたちひとりひとりも変容されていく、そしてわたしたちひとりひとりだけでなくて世界全体がですね、最終的には神の国に変容されていくんですが、そのような希望と望みを持って、毎日の信仰生活を送っていきたいと思います。
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