マルコ6章17-29節「愛には痛みが伴うー洗礼者ヨハネの殉教」

マルコ6章17-29節「愛には痛みが伴うー洗礼者ヨハネの殉教」2008年8月29日教員の黙想会、東京
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

今日の朗読した福音書は、マルコによる福音書の6章、17から29のところで、洗礼者ヨハネが首を切られる、というところで、旧約聖書からのユダヤ教の伝統で、預言者という人が、民にですね、時代時代で与えられて、神からメッセージをもらってですね、そのメッセージを人々に伝える、特に、大事な時、社会が曲がっていたり、歪んでいたりしたときに、それが元にもどるように、神のメッセージを伝える、そういう役目があったんですね。で、大体の預言者が大事にしたのが、やはりその時代の支配者ですね。王様とかなにかに、曲ったことをしていると、神の言葉が預言者に下って、預言者がそれを告げに行く、という…洗礼者ヨハネはその予言者の伝統というか、で、この洗礼者ヨハネはヘロデ王のところに行ってですね、あなたの結婚はまちがっていると、律法にかなってないと、言ったわけで、まあ、旧約の預言者はほとんどみんなそうなんですが、王様のところに行ってまちがっていることをずばずば言ったんで、だいたい王様に嫌われてですね、ま、ほとんどは殺されてるという、結局だからこの洗礼者ヨハネも殺されてしまうわけです。まあ、預言者の勤めになるわけですよね。で、まあ、ヘロデは福音書の中では、ヨハネの言葉を「非常に当惑しながらも、なお、喜んで耳を傾けていた」と。ヘロデ王の中にもふたつの気持ちがあって、やはり、その、洗礼者ヨハネの言っていることは正しいと、言っていることはわかっているんだけれども、やはり自分の気持ちに引きずられて、結局はその、まあ、今でいう不倫という立場で結婚していた、ヘロデアですね、兄弟の奥さんを取っちゃって自分んの奥さんにしていたわけで、まあ、ヘロデアとの結婚については間違っていたわけですが、結局その娘のサロメが踊りを踊って、その、誕生のお祝いにヨハネの首をくれと。ヘロデアにしてみれば洗礼者ヨハネは困った存在で、ヘロデアにしてみれば、王様とくっついているのが一番身が安泰であったわけで、それを責められると自分の立場がなくなったわけでしょうけれども、それで、結局娘をそそのかして洗礼者ヨハネの首を切らせることにしたんですね。ヘロデは、まあ、洗礼者ヨハネのほうにも惹かれてるし、でも、こう、ヘロデアとサロメの気持ちにも負けてしまって、結局は聖なる人を殺してしまうことになってしまうわけですね。

最終的に、というか、日々の私たちの生活もそうだろうと思うんですが、結局はどのような選択をするのか、ということですね。神からの、あるいは本当に真実の呼びかけというものがあるわけですが、やはり、自分のとらわれや、執着やなにかに引きずられてしまう。このヘロデはそれを迷いながら、どうすればよいかわからない。で、結局は奥さんと子供の要求に従って、神の眼からは正しくない決断をしてしまう。最終的に彼は自由がなかった、ということを語っているということと、まあ、洗礼者ヨハネは、やはり自分の使命を貫いて生きた、という清々しさのようなものがここで語られてるわけですね。

私たちひとりひとり今の時代にあって、まあ、みなさんひとりひとり、また役割や立場が違うでしょうが、ほんとに自分の自由から決断していけるかどうか、いろんなしがらみとかですね、いろんなものがありながら、ほんとうに大事なものを選んでいけるかどうかは、やはり、ひとりひとり、すべての人に問われてることだろうと思います。

そしていつの時代もそうですが、簡単なことではない。さまざまな社会の欲求や、人々の思惑や、エゴや、欲望や、そういうものの中でわたしたちは生きているんで、そういうものの中で正しい選択ができるかどうか、それはやはり問われることであろうというふうに思います。
聖心会のシスターから本をいただいて、マグダレナ・ソフィア・バラの伝記かなにかですけど、ちょっと読んでみたんですが、やはり、会が創立される時も、非常に大きな困難があったわけですね、皆さんも多分読まれて、あるいは話に聞かれてご存じだと思いますが、その当時はふたつの敵というか、問題があったわけですね、フランス革命という…まあ、フランス革命の評価はどうなのか、まあ、歴史の先生に怒られるでしょうが、良い面もあったでしょうが、悪い面もあった。それは、カトリック教会が大弾圧されたわけです。自由、平等、友愛のモットーのもとに新しい政府ができて、もちろんある意味でいいことでもあったわけですが、教会に対してものすごく大きな迫害と、そして、神が必要じゃないというですね、当時の啓蒙主義にのっとった非常に強い無神論の考え方から教会が大弾圧されて、そして多くの人々の教育が疎かになったということは明らかな事実で、それに、いわば対抗するように聖心会ができて、そして教育事業が当初からはじまったわけですが、その時から、僕は、今も変わらないと思うのですが、この、無神論的な世界のあり方、神無しに、まあ、人間が中心であるという考え方ですね、どこかに潜む、その傲慢のようなものが、結局は人間の社会を混乱させている原因ではないかと思います。

まあ、自由であること、平等であること、友愛はとても大事なことではあるのですが、結局フランス革命を起こした革命家たちは、仲間争いで、ほとんどやっぱりギロチンで死んでいってるわけで、人間の努力だけでは到達しえないものがやはりある、ということを認めざるをえない、ということですね。

イエスのみこころを中心としているということは、やはり私たちの愛の根拠、自由の根拠が、単なる人間の理性だけではなく、もっと深いところに根拠を置かなければならないということ、それはやはり神様の恵みのうちにあってこそ、ほんとの意味で私たちが愛と自由を生きているということですね、それをはっきりと語っているのだと思います。

そしてミッションスクールが、そのような創立の精神を失うならば、存在意義が無いと思うんですね。今の社会も、これは日本だけじゃないですけども、ヨーロッパもそうですが、先日までヨーロッパにいて、ヨーロッパのカトリックの人と話しても、状況的にはまったく日本と変わらないわけです。物質主義とか理性中心主義のような考えの中で、宗教もまったく古い、というかですね、逆にはやっているのはニューエイジのわけで、ちがうかんじのスピリテュアリティがはやっていて、それが解決策になるとはとても思えない。そのような、別にフランス革命はないですが、私たちの時代の中で、無神論的な、人間の考えですべて事足りる、というですね、一種のこの、傲慢のようなものが、現代社会の様々な問題を生んでいる。

それに対して私たちはイエスのみこころにより頼まなければならない、という学校の創立の精神を忘れてはならないというふうに思います。

それと、聖心会が創立当初対決しなきゃならなかったもうひとつのものはなにかというと、その当時というより、それよりずっと前からフランスに根強かったジャンセニズムというですね、キリスト教の異端なんですが、簡単に言うと人間は惨めで罪深い存在だから、まあ、苦行努力して神様のもとに行かなければならない、まあ、快楽とか、喜びとかですね、愛とか、そういうものを全部否定するような、非常に厳格主義のようなキリスト教で、それは異端とされたわけですよね、で、そのジャンセニズムに対抗してイエスのみこころという信心がフランスに起こったわけですね、みこころの信心の中心は「愛」というものなんですね。ジャンセニズムの中心

は厳格にものごとをするということだったんで、愛ということがまったく入らなかった。それに対して、まったくキリスト教とずれてるということで、イエスのみこころということがおきたわけですが、当然、だからイエスのみこころを中心とするという以上、キリスト教の価値の中でも、愛を中心としている、それが根本だということは、やはり疑うべくもない、ということですね。そして、聖心会の学校にしろ、みこころ、という言葉を名前につけている以上、その価値を、その内的な意味を、私たちひとりひとりが深く意識しながら生きていくことがなにより必要だと思います。

中心は神の愛ということ、それ以外にないと、個人的に思いますね。
もちろんそれは、人間的な愛というかたちでしか表現できないので、神の愛そのものを私たちはなかなか語っても空しいというか、なかなかピンとこないところが多々あると思いますが、愛がなければ、本当に私たちの生活、あるいは皆さんの教育もそうでしょうが、まったく意味がないのは明らかであろうと思います。

ただ、イエスのみこころということは、愛の中でも、なんていうんですかね、あの、ハートのところに、ぎざぎざがあって、茨の冠がかかっていて、その、シンボルが示している通りだと思います。愛の中には、どの側面でもそうですが、自己犠牲が入ってくるということ、痛みが入ってくるということを語っている。なんというか、どの次元でもそうだと思いますが、親が子どもを愛することでもそうでしょうし、あるいはなにか、目標に向かって努力する、それもひとつの愛でしょうし、皆さんが子どもたちを世話する、それもそうでしょうし、痛みを伴わない愛ということはありえないと思いますね。

人を本当に愛するならば、痛みを引き受けていく覚悟というか、それが、必ずどの段階でも、夫婦関係でも親子関係でも、単に気持ちのいいだけの愛ということはありえないと思いますね。どこかで痛みを引き受けていく愛ということが問われていく、それをイエスのみこころが一番示しているんだろうと思います。

だから、愛に困難があるということは、まあ、あたりまえということですね。その困難を引き受けて、そこから逃げない、そしてそこに自分を賭けていくときに、本当の意味で愛がまっとうされるんであろうと思われます。

みなさんが人から受けた愛があると思うならば、その人がかけた努力や痛みがあって今の自分があるということを感じられることも多いんじゃないかと思われますが、私たちが人を愛しているときに、それは子どもであろうと家族であろうと、あるいは他の人であろうと、やはり、痛みを覚悟で愛さなければならない。僕はそこに人間の最高の自由が現われてくる側面があるのではないかと思いますが、まあ、洗礼者ヨハネが、預言者としてヘロデに訴えていった、それは牢獄に入れられて殺されることがわかっているわけですが、その覚悟で言いに行って、それで、牢獄で打ち首になって殺されるわけですが、僕は、彼は満足だったと思いますね。生涯、自分のすべき使命を貫いて生きた、ということ。私たちも、なにか、本当に貫くべきところを貫いて生きていきたいと思います。

現代はそういう、その、無神論と、一種のジャンセニズムが直接あるわけじゃないですが、社会全体が冷淡になったり厳しくなったり、愛が冷えているところが家庭の中でさえ、友達同士ですら、この、愛が冷えているような孤独や寂しさや、争いがですね、なにか、傷つくことが見えてる、子どもたちもそうでしょうし、社会全体がそのような傾向が強いわけで、その中で、本当に愛に生きることの、尊さと素晴らしさを、まあ、私たち自身が生きていくことによってしかそれを示すことが多分できないわけで、そのような、現代には現代のチャレンジが私たちに与えられていると思いますが、そのチャレンジに負けないで、私たちが本当に大事なものを生きていけるように、そういうものを伝えていけるように、まあ、2学期の初めにあたり、新たな気持ちでですね、仕事に、生活に、自分の人生そのものに向かっていけるように祈りたいと思います。

 

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マタイ16章13-23節「イエスが与えた名前ーペトロの信仰告白」 

マタイ16章13-23節「イエスが与えた名前ーペトロの信仰告白」2008年8月7日シスターの黙想会、青森

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

今日の、このマタイの16章は、いわゆる「ペトロの信仰告白」のところになります。イエス自身が弟子たちに、自分のことを何者だといってるのかと。噂では洗礼者ヨハネだとか、エリアだとかエレミアだとか…そういうふうに言う人たちがいたわけです。ま、イエスの評価というか、イエスが誰であるかとかはっきりしていなかった。そこでイエスが弟子たちに聞くわけです。
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するとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子だ」、イエスこそメシアであり、生ける神の子だ、と答えたわけですね。それに対してイエス様が、それを、この、褒めるというか、あなたは幸いだ、と言うわけですね。ただ、この時ペトロが本当にイエスがメシアで生ける神の子だということがどういう意味かわかっていたかどうかは、実はやはりまだわかっていなかったわけで、それはただ、ユダヤ人のふつうの考えで、イスラエルを救ってくださる、政治的な、軍事的な独立をもたらしてくれる、そういうメシアであるというふうにしか思っていなかったでしょうし、自分自身も、そうなったら右大臣か左大臣か、まあ、国務長官にでもなれると、まあ、そのような気持ちくらいだったと実際思われます。

だからこそ、この、メシアだということを打ち明けてから、なにをイエスが言うかというと、受難予告ですよね。ご自分が必ずエルサレムへ行って、多くの苦しみを受けて殺され、そして3日目に復活するという…まったく意味がわからなかったので、わざわざ、ペトロがイエスを脇へお連れして諫め始めた、それはまったくイエス様の使命と違うわけで、イエス様の方が、ペトロの方に、サタン引き下がれ、と非常に強い言葉で言います。

結局のところ、イエスが本当に誰であるのかペトロがわかったのは、十字架と復活を過ぎ越した後ですよね。十字架のところでまだわからない。でも、イエスの復活に預かって、やっと、イエスがメシアであり、神の子だということを悟ったんだと思います。だからこそ、わたしたちが、イエス様はいったい誰なのか、自分にとってですね、それはやはり時間のかかることでしょうし、様々な苦しみや、あるいは喜びを、体験して初めてわかってくることかもしれない。

この、あなたはメシア、生ける神の子です、という答えに、イエスがシモン・バルヨナ、と褒めた後にですね、あなたはペトロだ、と言って名前を与えるんですよね。もともとの彼の名前はシモン・バルヨナ、ヨナの子シモン、だったわけですが、なぜ、このシモンにペトロという名を与えたのか、これも非常に謎というか、まあ、ご存じのとおり、ペトロというのはギリシア語のペトラという岩という言葉からきていて、日本語で言ったら「巌」となるわけですが、なんでイエス様がシモンを「巌」と名付けたのか。

というのは、ペトロは人間的に言えば、全然巌のようなタイプじゃなかったわけで、よく言うんですけど、どっちかって言うと、巌じゃなくてコンニャクみたいなかんじだったわけで、まあ、くねくね、意志薄弱なわけですね、ちょっといい気になったと思ったら、湖の上で溺れそうになったり、一番大変だったのは、やはり最後の晩餐の時に、どこまでもついて行くと言いながら、数時間後には「この人は知らない」と言った。その後も結局は宣教活動をしていても、ユダヤ人の習慣に戻りそうになってパウロに怒られてるわけで、どっちかっていうと、まあ、裏表のあるタイプじゃないですけど、巌のような固いものじゃなくて、コンニャクのような軟らかいタイプ、流されやすく、意志薄弱で、なんというか、自分を貫けないタイプだというのは間違いないと。そのタイプのシモンに、おまえは巌だとイエス様が名づけるというですね。

名前というのは、聖書の中では非常に大事なものであって、それはその、肩書きじゃないんですね、その本質っていうか、実質を現す、一番深いその人を現すものが名前であると、だからイエスがペトロだ、巌だ、と言った時に、やはり本当に、ペトロに、巌のようなものになってほしかったのだと思います。でも、急にペトロがなれたかといったらそうじゃないわけで、それもやっぱり時間がかかっている。やはりイエスの十字架を通して、その復活を通して、宣教活動を通して、彼は少しずつ、神の恵みによって、巌のようなものになって、それで、初代教会の、まあ、ローマの司教、今のパパ様の一代目になったわけです。

イエスがだれであるのかということもそうだし、自分がいったい誰なのかということも、やはりわたしたちは時間をかけなければ、本当の姿というか、本当のものは出てこない。それは祈りと信仰生活を深める中においてこそわかってくるものであろうと思われます。

まあ、巌のような性格は誰かといったら、それはもう、ペトロじゃなくてパウロなんですよね。パウロは実際巌のような性格だったと思います。自分で決めたことは必ず成し遂げる、頑固な性格で、ぶれるということはほとんどない。猪突猛進で、周りの人がなんと言おうと、自分の決めたことをやっていく、まあ、強さがあった。そのかわり、融通の無さとか、なんというか、調停したりというか、そういうものはまったくできなかっただろうと思われます。頑固すぎて人の意見を聞き入れるということがまったくできなかったでしょう。彼は巌なんですよね。でも、彼には巌と名付けてない。

パウロももともとはサウロだったんですよね。で、回心の後、しばらくして、イエスに名付けられたかどうかはまあ、使徒言行録には書いてないですが、もともとはサウロで、使徒言行録で活躍しはじめてからパウロになる、彼も名前が変えられているわけですよね。じゃあ、パウロっていう名前がギリシア語でどういう意味なのか、コンコルダンスで引いてみたら、「小さいもの」、パウリ、という意味ですね。イエスはパウロに、小さな者であれ、というのが、イエスがパウロに望んだことですね。パウロが自分はいかに小さいものであるのか、それは多分急にはわからなかったと思う。若いころは確かにユダヤ人のエリートで、頭がいいのも間違いないし、実行力もあったし、むしろ自分に自信満々だったかもしれない。でも、宣教活動の中で、様々な苦しみにあってですね、うまくいかないことがたびたびあって、その中で彼は小さな者であることを、自分自身がですね、小さな者であることを受け入れていく、小さな者になったからこそ、本当に彼は宣教師としての器、神の御用を果たす本当の器になったんだと思います。

まあ、人それぞれ、神様から与えられている名前がある。それは一朝一夕になるものではない、やはり、神さまとの深い交わりと、日々の苦労や困難を通しながら、そのようなものに変えられていく、ペトロも巌のように変えられていった、パウロも小さな者に変えられていったわけですね。わたしたちひとりひとりも、同じだと思います。

ひとりひとり、主から呼ばれて、主から名前を与えられて、そして主から名前に基づいて使命を果たすように言われている。それはわたしたちひとりひとり同じだと思います。その、主との深い交わりの中から、そして祈りの生活、信仰生活を通して、本当の意味でわたしたちが自分に与えられたものになっていけるように、本来の神から見た自分自身になっていって、神様の、本当の意味での御用を果たしていくことができるように祈りたいと思います。

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マタイ25章1-13節「灯火をともす」

マタイ25章1-13節「灯火をともす」2011年11月6日黙想会 鎌倉

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マタイ22章34-40節「賛美の歌を歌う」

マタイ22章34-40節「賛美の歌を歌う」歌の黙想会 鎌倉

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マタイ20章1-16節「神のきまえのよさ」

マタイ20章1-16節「神のきまえのよさ」2011年9月18日

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昨年のいわき教会黙想会の様子の動画です

昨年11月23日、カトリックいわき教会での黙想会の様子です。
7部に分けてYoutubeのチャンネルにアップしてあります。
ミサ説教もスライドショーでお聞きいただけます。

説教「イエスの十字架のあるところ」
黙想会「神の愛と慈しみ1」
黙想会「神の愛と慈しみ2」
黙想会「神の愛と慈しみ3」
黙想会「神の愛と慈しみ4」
黙想会「神の愛と慈しみ5」
黙想会「神の愛と慈しみ6」
黙想会「神の愛と慈しみ7」

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マタイ17章1-9節「主の変容」

マタイ17章1-9節「主の変容」2008年8月6日 シスターの黙想会 青森

17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

今日の福音書はいわゆるイエス様がご変容をされた、というところです。
ペトロと、ヤコブとヨハネを連れて高い山に登った、この高い山というのがタボル山だという説もあれば、ヘルモン山だという説もあります。そこで、その、高い山の上で、イエス様の姿が、輝きだしたわけですね。顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった、ま、イエス様の神様としての姿がその時はっきりと顕れていたのだろうと思われます。ペトロはそれを見て、何を言ったらいいのかわからなかったので、仮小屋を三つ建てましょう、というわけですが、なにかそういうものに触れたときに、小屋のようなものを建てて、まあ、記念したい、というかですね、お祝いしたいという気になるのかもしれない、なにかかたちあるものにしたいという、なにか、人間としての気持ちかもしれない。
そこの海岸沿いにある公園に行ってみたら、けっこう銅像とか、記念碑があったりするんですが、ああいうものを建ててもまったく意味がないというか、結局誰も見てないし、記念碑にしろ、銅像にしろですね、建ててるだけで、まあ、建てた時に意味があったかもしれないですけど、まあ、それぐらいなものでしかないわけで、わたしたちが、神様と、イエス様と関わるときに、実際にそういうかたちある記念碑をつくって顕彰したり、お祝いしたりしても、実際は仕方ないわけですね。

わたしたちがもっと大事なのは、生きた神様と日々どのように交わっていくか、ということで小屋を建てたり記念碑を建てたり、場合によっては教会を建てたりということもあるかもしれないんですけど、そういうことを求められているわけではない。
やはり、生きた神様との交わりに私たちはいつもいつも招かれている。だから、ペトロがこう話しているうちに、光輝く雲が彼らを覆って、御父の声が聞こえたわけです。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、これに聞け」と。これはイエスの洗礼の時の言葉とまったく同じものですよね。その、愛する子、わたしの心にかなう者、イエス様にですね、これに聞け、とペトロに言われるわけです。
わたしたちもイエスの姿の中になにを見るのか、それは御父から示された神の愛、それに触れてそれを観想し、それに聴くわけですよね。その、イエス様と、イエス様の中に脈々と流れている御父の愛ですよね、それをわたしたちはいつも触れて、そこから力をいただいて、そしてそれを生きていく、その生きた交わりこそがわたしたちを生かしていく本当の力だと思います。
わたしたちが黙想の中でしている営みというのはまさしく、この、イエス様との交わり、そこから力をいただいて、そのイエス様に聴いて、そしてわたしたちが変えられていく、そういうものであろうと思うんです。
イスラエルの巡礼に行った時に、タボル山の山の上にあるんですよね、その、主の変容教会、というのが。個人的には、そこはあまり、インスピレーションが強くあったわけではなくて、タボル山とヘルモン山と両方説があるということで、どっちかというと、イエスが変容したのはヘルモン山のほうではないかとその時は思ったのですが…タボル山のほうはそれほど神秘的な感じがあったわけではないんですが、その、変容教会の、山の上にある教会の中で、まあ、他の人たち、他のグループもいっぱいいたわけで、そこで、ふと、神様に聞いたんですよね、「主の変容とはいったいどういうことなんですか」って…雰囲気的にあまりぴんとこなかったんで、主の変容とはどういうことなのか教えてくださいと、心の中でお祈りしたんです。
その御聖堂にいる時に。そう祈った瞬間、ふっと前を見たら、まあ、かなり大きな御聖堂で、前の方で、ちょっと下の方なんですけど、祭壇があって、そこで別のグループがミサをたてていたんです。わたしが、主の変容ってどういうことですか、と祈った瞬間に、はっとそのミサをたててるグループが見えて、神父さんが高くホスチアを挙げているところだった…それで、そうか、と思って…。やはり、主の変容ということは今日も起こっている、ミサの中で。イエス様がキリストのからだ、ということでパンを聖変化された、それこそ、変容ではないか、と、その時強く思いました。
結局、変容ということは、これ一回限りのことではないと思うんです。ミサのたびにただのパンが御聖体に変えられていく、そしてそれをわたしたちがいただくことによって、わたしたちも、この、主の、キリストのからだに変容させられていくんだと思いますね。祈りや礼拝を通して。
そして、昨日、一昨日と話したんですが、結局キリストは貧しい人にも変容されて、苦しんでいる人や小さな人々に変容されて、わたしたちの前に現われてくることもある。そして、その苦しんでる人々と関わることによって、やはりわたしたちは変容した主をいただく、というですかね、交わることができるんじゃないかと思います。
そして当然、教会とか、教会共同体そのものがキリストの体であるというならば、わたしたちの共同体もキリストのからだへと変容されていくんだと思います。神の恵みに満ちたものにですね。まあ、わたしたちひとりひとり、そしてグループとしても、罪深さや、人間的な弱さをかかえているわけですが、しかし、わたしたちが本当にイエスに聴いていく時に、イエスの恵みをいただいていく時に、イエスに従っていく時に、わたしたちも変容されていく。ひとりひとりが変容されていく。そしてグループとしても変容されていく。
もちろん、完全な変容は、神の到来、世の終わりでしょう。
わたしたちは今日も、これからも、その、神の恵みによって変容されつつあるんだと思いますよね。変容されつつ、ある方向性に、なんというか、こう、向かっていくというか、その、神との生きた交わりを絶えず生きていく必要性があると思います。
変容された主に、わたしたちはどこででも出会うことができるし、そして、その変容された主に出会うことによって、わたしたちひとりひとりも変容されていく、そしてわたしたちひとりひとりだけでなくて世界全体がですね、最終的には神の国に変容されていくんですが、そのような希望と望みを持って、毎日の信仰生活を送っていきたいと思います。

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マルコ13章33-37節「神の国があるところ」

マルコ13章33-37節「神の国があるところ」2011年8月27日黙想会鎌倉

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マタイ13章44-52節「ゆるがないもの」

マタイ13章44-52節「ゆるがないもの」2011年7月24日黙想会鎌倉

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ヨハネ15章9-11節「愛と喜びに生きる」

ヨハネ15章9-11節「愛と喜びに生きる」2011年5月26日8日間の黙想最終日、鎌倉

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