説教ライブ

【2024年8月24日のミサ説教】マタイ福音書19章16-22節「いやしの街」

hanafusafukuin

マタイ福音書19章16-22節「いやしの街」2024年8月19日いやしのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 欠けているものは埋め合わせるべきものなのでしょうか
  • 世間の常識の逆を行くイエス様の価値観です
  • 欠けているありのままを受け入れる釜ヶ崎野町はいやしの街なのかもしれません

いやしのミサは旅路の里で毎月第三月曜日にあるよ

福音朗読 マタイ19・16-22

そのとき、19・16一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

いやしの街

今日の福音書はマタイの16章、1人の男、1人の青年ですね。それがイエス様のところに行って、言うんですよね。永遠の命を得るにはどんな良いことをしたらいいかということを聞いて、割と前向きな人だったんじゃないかという気がしますが、イエス様はですね、掟を守りなさいと言う。掟というのは、これは旧約聖書に出てくる律法というか、十戒ですね十戒の教えで、殺すな、姦淫するな、盗むなというのは十戒の教えですね。それをイエス様守りなさいということを言ったら、この青年はそういうことは守ってたと言って、まだ何かこの欠けているでしょうか?欠けているところがあるでしょうかというふうにイエス様に聞くわけですね。

そしたらイエス様の答えがちょっとびっくりするような答えで、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。と言うんんですね。その、全財産売り払って、貧しい人に施せばいいということを言うわけですが、でも青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去ったっていう、結局できなかったんですよね。何でかって言うとこの青年は金持ちだったから、たくさんの財産を持ってたから、それを手放すことができないという話なんですよね。

欠けているものは補うべきなのか

なかなか聖書の中には救われる人が出てきますけど、救われない人も出てきてこれは悲劇の一つかもしれないですけれども、どうなんかっていうことですけどね。まだ何か欠けているでしょうかって彼がイエス様に聞くんですが、真面目で頑張り屋だったかもしれないけど、割りと自分に自信があったのかもしれないですよね。やっぱ掟も全部守ってきたっていうんだから、かなりどっちかっていうと立派で真面目な方だったと思われるんですけども、やっぱり何が自分に欠けているのかっていうことなんですよね。

実際、このミサは特に癒しのためにお祈りしてるので、癒しってのは基本的には欠けてるところがあるから、癒しを願うわけですよね。皆さんはどうですかね自分の中に欠けてるところがあるか、あると思うか思わないかって言うことが一番のポイントですけど、その欠けてるところを結局どうしていったらいいのかっていうことであるわけですよね。自分の中で欠けてるところがあったら、欠けてるところ埋め合わせてですね、さらに何かステップアップしていこうっていうふうに思うのが普通だと思うんですが、ただイエス様はこの欠けてるっていうところをどう考えてたのかっていう感じなんですけど、欠けてるところだったら埋めていくとかね、欠けてるところから頑張って、その欠点を無理に乗り越えていこうとか、その辺そのように何か足し算というか、にしていくところなんですけど、でもイエス様は何か欠けてるところ云々じゃなくて、持ち物売り払えっていうふうに、全然ちょっと視点が違うわけですよね。

だから何か持ち物売り払ったら、なんちゅうのか、自分が欠けていくというか、持っているものがなくなったらどっちかというと自分がかけていくわけです。今は世知辛い世の中だから、お金がなかったら生きていけないですしね。ある程度仕事してお金をもらうか生活保護で、とにかくちょっと月々もらうかしないと生きていけないわけだから、足らんところをちょっと埋めないと生きていけない。ところが、イエス様は逆に持ってるものをみんなに分かち合えってわけですよね。

だから何ていうかな、自ら何か欠けるっていうのか、少なくなる、足りなくなるわけですよ、自分自身がね。でも足りなくなることが実はプラスなんだってことをイエス様言ってるわけですから、やっぱり私達の発想変えなきゃならない。

例えば病気だったらやっぱ健康になることを願うわけですよね。やっぱり病気っていうのは、健康が欠けてるから、そこで何か薬飲んだりなんかいろいろしてですね、欠けたところを埋め合わせて健康になりたいと思うわけですけど、でもなんかイエス様のこの話だけじゃないんですけど、見てて思うのは、やっぱ何か欠けたところを埋めるよりは、かけたらかけたままで、むしろ欠けたところを増やす、増やすっていうのはなんだかおかしいけど、持ってるものは分かち合うんだからどんどん欠けていくわけですよね。むしろだから何か私達の生きる方向性そのものをちょっと逆側に考えたらいいと言ってるように思うんですよね。でもその逆側に行くってことが彼にはできなかったんですよね、やっぱりこの欠けたところを埋めて増やしていくっていう発想だった。彼は多分ね。
だから増やしていこうと思ってたのに、急にそれ減らせっていう、マイナスにしろというわけだから、それは彼にやっぱりできなかったんですよね。手放すとかね、捨てるとか、分かち合うとか、そういうことができなかったから、結局彼は悲しみながらイエス様の前から立ち去らざるを得なかったですよね。

手放す、欠けたままでいい

どうしたらこの青年は良かったのかちょっとちょっとなかなかね、あれですけど、でも結局ね私達もなかなか手放せないからいろいろ握りしめてて、大したものじゃないんだけどいろいろ捨てられなくて、もうこれがないと生きていけないみたいなことで一生懸命なわけです。もうそれはアルコール依存だったら、このアルコールを手放せないとか、いろいろ手放せないものがあって、でも結局、そういうもので欠けたものを埋めようとすればするほど結局逆回りで癒されない方向に行ってしまう。イエス様の逆の方向にね。

逆に手放して自分に欠けたもの、そこを何かイエス様が埋めてくれるみたいな。つまり何か欠けていたら、欠けたままでいいっていうのかな。それをあえて埋めようとせずに、欠けたからこそ、そこから発想を変えて、この貧しい人々に施しなさいっていう、何か持ってるものを分かち合ったりしようって、握りしめないで。それを手放して、しかもただ単に捨てるんじゃなくて、なんかね、困ってる人に分かち合っていく中で、やっぱり何か開かれてくるところが出てくる。そこはやっぱり一番の恵みが出てくるところかなっていう気がしますよね。
だから彼はちょっと積み上げ方式で、この青年は積み上げ方式で結局ね、自分の力で何でもやりましょうっていうそういう発想なんだと結局思いますけど、どっちかっていうと自分の力とか何かを手放して、委ねていく中でこそ、なんか神の恵みが自分の中におりてくる。そこに何か癒しとか恵みとか救いということが私達に与えられるってことですよね。

だから元々何か癒されてないところがある、欠けているところがあるっていうことを、自分自身がマイナスだとあんま思わなくていいっていうのかな。欠けているところがあるから、埋めるんじゃなくて、欠けてるところから、そこから神様の方に自分の気持ちを持っていく、あるいは欠けてる者同士、助け合って生きていくことができるっていうことですよね。

釜ヶ崎はいやしの街

だから何かさっきもちょっと話したんですけど、やっぱりなんか釜ヶ崎の街そのものがやっぱり癒しの街かなって感じもして、つまりね、いろいろ生きづら生きづらさを抱えて、結局、いろいろあって、この釜ヶ崎に来て、町全体が何か欠けてるものを受け入れてくれるところと、何でも受け入れてくれてるところだから、別にこの町が何か、足らないかって言ったら足りてるみたいなところがあって本当に困ったら炊き出しに行けばいいんやから、なんやかんや助けてくれる人はいっぱいおりますからね。だから何か癒してくれるとか助けてくれる町やから、そんなに困ってないっていうか困ってないっていうか。
もちろん困ってる人が来る、来ても困らないで済む。それは何か欠けてるところを埋めてくれるものがいっぱいあるからですよね。何か埋め合わせがあって、別に何か頑張れとか、あんまりね何か一生懸命積み上げ方式でこうやる必要性はなくて、なかったらなかったなりに埋めてくれるものがここにあるから、だから癒されたり助けられたり受けられたり。

でもそれはやっぱり神様のやり方かなって感じですよね。欠けてるからこそ神が埋めてくださる。何か足らないところがあるから人間的にジタバタするよりは、神様の恵みとある仲間同士の助け合いの中で自然と埋め合わされるとか、埋められていくみたいな、それがだからなんか癒しの恵みじゃないかなと思いますね。

この街で癒しのミサやってますけど、なんか街全体がやっぱりむしろ癒しの街だからそこで癒しのミサをするのも何かあってるかもしれないですよね。私達がいろいろ欠けたものが、足らないものいっぱいありますけど、だからやっぱりお祈りすることもできるし、だから助け合うこともできるし、だから私達はなんかそんなにね、あくせくしないで、今の自分を受け入れて、それでやっぱり一歩一歩また歩んでいくことをすれば、十分だと思いますよね。

そのようなですね、何か欠けたものを助けてくださる神様に私達の心を合わせて、もちろんね、足りなくって困ることもいろいろありますから、それはなんかどっかに行ったらもらえたり、ちょっと友達と助け合ったり分かち合ったり、そんなことでやりながら、やっぱり寛大に与えてくださる神さまを信頼してですね、歩んでいけるように恵みと力を願いましょう。

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