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【ミサ説教】ルカ福音書3章1-6節「星に向かってまっすぐに」

hanafusafukuin

ルカ福音書3章1-6節「星に向かってまっすぐに」2024年12月8日待降節第2主日仁川カトリック教会黙想会のミサ

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 神様自身が神様へ至る道をまっすぐにしてくださっています
  • 現実では曲がりくねっている私たちの道を軌道修正するためにみことばがある
  • 曲がってしまっても仕方がない、人間だもの
  • まっすぐ歩もうという気持ちを忘れずに歩みましょう

今日の音声はお説教からです

福音朗読 ルカ福音書3章1-6節

1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。
 5谷はすべて埋められ、
 山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに、
 でこぼこの道は平らになり、
 6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

星に向かってまっすぐに

今日は待降節の黙想会イエス様の降誕を準備するためにですね、私達はここに集まっています。残念ながらちょっと風邪をひいていて、喉の調子が良くないんで聞き苦しいところがあるかもしれないんですが。大体待降節第2主日第3主日は洗礼者ヨハネのところが必ず朗読されることになっています。

洗礼者ヨハネ自身がイエス様の救いの準備の人だったわけですね。罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を述べ伝えたということです。そして彼の使命は、このイザヤのこの預言書に書かれている通りで、主の道を整え、その道を、この、まっすぐにするということですね。

曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに、そしてこの神の救いをあおぎ見ることができるようにと。このイザヤの預言そのものはですね、バビロン捕囚からのイスラエルの民が今のパレスチナ地方に戻っていくための預言にあたります。

主の道をまっすぐに歩めるかどうか

実際はあの捕囚のうち、遠く離れたところから本国に戻っていくために、神様自身が主の道を整えてまっすぐにしてくださって、そしてそこに帰りやすくしてくださるというところですね。それを洗礼者ヨハネはまた別の意味で、私達にこの問いかけているわけですね。主の道をまっすぐに、そして私達はその道をまっすぐにですね、歩めるかどうか。それが私達に問われているということだと思います。

実際、道をまっすぐに歩こうと思っても、大体ですね日本は狭いから、まっすぐな道がないんですよね。ちょっと言ったら曲がったり、グネグネだったりですね。細かったり広がったり実際このまっすぐにぴゅっと行ける道っていうのはほぼ日本の中ではない。実際は曲がらなきゃならないということですよね。実際どうやってまっすぐに行くかっていうのはなかなか難しい問題で。

七曲の道をまっすぐに行け

先輩の神父さんたちで、一時期ですけど座禅が流行ってたんですよね。カトリック教会で、皆さんもちょっとした人いるかもしれないすけど、何人もの神父さんが座禅やってて、1人のイエズス会の先輩の神父さんは臨済宗のお坊さんのところでですね、座禅やってて、臨済宗っていうのは公案が出るんですよ、公案と言ってですね、何か解けないような、普通で考えたら答えられないようなことクイズみたいなもらって、それで座禅してその答えを出してですね、そうしないと次のステップに行けないみたいなシステムなんですけど、神父さんがもらった公案がですね、「七曲の道をまっすぐに行け」っていうか、7回曲がる道をまっすぐに行けっていう公案だったんですよね。

それをもらってその神父さんはもう一生懸命座禅するんだけどもどうやってもわかんない。だってまっすぐね、行こうと思ったらぶつかっちゃうし、曲がっちゃったらもうあそこに行けないわけでしょ。だからそういう公案をもらって、どうしても解けないですよね。そしたら師家っていう、この悟り開いたお坊さんがですね、独参って、大体この狭い面接室で大体あるんですけど、そこでじゃあ、俺が見せてやるって言ってね、狭い畳の部屋ですけど、そこで彼がですね、ななまがりの道をまっすぐにはこういうことだって言ってですね、今度、胸を張ってずんずん歩くんですけど、すぐ行き止まりで終わりですよ。行き止まりだからすぐ曲がってすぐ曲がるんだけど、でも歩いてる姿を見て神父さんはだんだん曲がり道はこうやってまっすぐに行くんだって、やっぱわかったって言ってましたけど。つまり曲がりながらもまっすぐ歩くってことは実際はですね、そのコツを私達がどうやって掴んでいくかっていうことなんですよね。東方の三博士

東方の三博士の旅

実際もっと聖書的な例で言ったらですね、バビロン捕囚の元々のお話なんですが、この道を実際たどった人は誰かって言ったらですね、東方の三博士なんです。実際、東方の三博士は今ぐらいに出発しないと25日のイエスの誕生に間に合わないんで、多分今頃ぐらいには出発したと思います。

彼らが出発して目標は何かって言ったら、彼らから見たら、東から西の空に輝く星を見たんですよね。救い主は王が生まれた。その印を見たから彼らは歩き始めたんですよね。東方の三博士はどうしたかって言ったら、その星に向かってまっすぐ歩いてたんですよ。

実際それだけが頼りですから、それに向かってまっすぐに歩いてたんですけど、でも実際はまっすぐかって言ったら、まっすぐじゃないんですね。何でかって言ったら、星が見えるのは夜だけですね。夜は歩けないんですよ。歩けるのは昼間だけ。でも昼間は星が見えないんですよ。だから夜に星を見て、こっちの方角だと思って昼間、いわば手探りのようにして歩いてったんですね。実際、日本ほど狭くないけどそれでも道が曲がってますし、山があったり、湖があったり、川があったらまっすぐ行けないです。世界中どこでも。

だから彼らはどちらかって言うたら夜星を見て、日中ですね。まっすぐ行くつもりでも曲がりながら行って、それで夜になって星を見て、ちょっと曲がってたなとかちょっとずれたなって軌道修正をして、また翌朝、こっちの方向だと思ってまっすぐに歩いてる。まっすぐに歩くけど実際は曲がってちょっと方向ずれたりとしながら、そういう旅をずっとしてたんですよね。

祈りの中で軌道修正をする

実際、私達もそうするしかないんですよ。夜っていうか、祈りの中で心を静めたときに、自分の方向性がこうだと、こちらの方向に行こうと思ってですね、決めて歩んでたとしても、日常生活はごちゃごちゃ。何か仕事が忙しかったり何か人間関係がどうのこうのとか、ハプニングがいろいろあるし、何か人の意見も振り回されたりいろいろしますから、まっすぐ歩いてるようで私達は結局まっすぐじゃなくなっちゃうけど、でも夜になったらちゃんと軌道修正をして、自分がどうすれてたのか、ちょっと曲がってたなとか、でも方向性はこっちだなっていうことをちゃんと確かめながらでないと、私達は曲がりながらまっすぐ歩けないんですよね。

イエスの言葉にしろ、洗礼者ヨハネの言葉にしろ、やっぱり私達がまっすぐ歩くようにちゃんと主は私達に星を輝かしてくださってるわけですね。それに向かって気持ち的にまっすぐ歩くかどうかなんですよ。実際は曲がることがあるけど、曲がったっていいですけど、でもまっすぐ歩いていく気持ちが私達の中にあるかどうか。信仰者としてですね。

昼になったら見えない。何か儚くも思える、その星の輝きをそれに向かってまっすぐ私達が歩んでいくならば、相当遠回りしてもまっすぐ歩くことはできると思いますね。私達はそのような信仰の道を歩んでいけるように、特に待降節ですね。

間違っても、その度に悔い改める

でもね東方の三博士は最後の最後失敗したんですね。ちゃんと最後の最後まで星を頼りにしたらよかったのにエルサレムについて安心してですね、王様だから、ヘロデの宮殿で生まれるだろうという人間的な考えに最後捕らわれた。

だから間違った場所に行って、ヘロデ王のところに行ってですね、全然最後の最後がずれちゃったんですよね。それは最後の最後、人間的な思いで考えたからですね。最後の最後まで星の導きに従ったらよかったんだけど、最後だけずれちゃったんですね。

そこから大きな悲劇がまたいろいろ出てくることになるわけですけど、私達も度々失敗します。もう仕方がないですよねそれはね。やっぱり人間的な考えでこっちがいいと思ってでも後から見たら全然ずれてる。もうそれは度々あることですが、でも私達はそのたびに悔い改めて軌道修正をして、やはりまっすぐですね

主の道を歩んでいく。主の道がその道をちゃんと示してくださることも間違いないと思いますから、少々失敗してもうまくいかなくても、でも私達がいつも神様の道を神に向かってまっすぐにできるようにその誠実さと辛抱と日々の祈りを捧げながらですね、ともにこの道を歩んでいけるようにこのミサで祈りたいと思います。

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