ヨハネ福音書10章27-30節「ファチマの祈りの場」

ヨハネ福音書10章27-30節「ファチマの祈りの場」2025年5月11日復活節第4主日のミサ カトリック長府教会
長府教会はファチマの聖母に捧げられた教会です。
ファチマはの預言は非常に厳しい内容ですが、ファチマの地に実際行ってみると、祈りと犠牲を捧げる人がたくさんいて、非常に清らかな空気を感じられる場所でした。長府教会もファチマのような清い祈りの場になってほしいと願っています。
(教会祭の日のミサ)

ファチマの聖母への祈り カトリック中央協議会
福音朗読 ヨハネ福音書10章27-30節
〔そのとき、イエスは言われた。〕27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」
ファチマの祈りの場
今日の福音書はヨハネの10章善き羊飼いの譬えのところを朗読するようになっています。私の羊は私の声を聞き分けるというふうにイエスをおっしゃいます。イエス様が羊飼い、善き羊飼いであって、私たちは羊であるということですね。
実際、あまり日本でも羊がいないからあれですけど、当然羊飼いはいつも羊と一緒ですから、羊飼いの声をちゃんと聞いて、羊飼いが呼びかけたら羊がちゃんと従っていく。羊は羊飼いの声をよく知っていて、それに従うというわけですね。
皆さんの中で、もし犬を飼っている方々がおられたら、やっぱり犬は羊飼い、飼い主のことをよく分かっていますから、呼びかけたり、いろいろああしろ、こうしろと言ったら、賢い犬ならばたそれと同じように羊も羊飼いに声に聞き従っていくということですね。
羊飼いはイエス様ですから、私たちはイエス様の声を聞いて、それに私たちが従っていけるようにですね、改めてその恵みを願いたいと思います。もちろん、イエス様の声は直接神様の声は聞こえないことが多いですけれど、でも、いろんな人を通して神様が私たちに呼びかけておられるということですね。
フランシスコ教皇を通して、本当に素晴らしいメッセージや励ましや刺激をたくさん受けましたが、この新しいレオ14世になってどういうメッセージを私たちにくださるのか、楽しみでもありますけれども、やはりリーダーとか教会のリーダーを通して、私たちはこの羊飼いの声を聞くことができるということは確かなことじゃないかなと思いますね。
でも、そういうリーダーとか。司教さんとか神父さんとか、そういう方々を通して神の声を私たちが聞いていくということも一つですが、いろんな形で私たちは神の声を聞いていくということですね。このファチマの聖母のメッセージを告げたのは、ポルトガルの田舎のファチマでですね、まさしく羊飼いか何かの家に生まれた子供か何かだと思うんですけど、ルチアとヤシンタとフランシスコという3人の少年少女にマリア様が現れて、そして様々なメッセージを語られたわけですね。
不思議なことですけれども、ルチアやフランシスコ、ヤシンを通してマリア様が語られて、私たちにメッセージを残されたということですね。だから、私たちが神の声を聞くのは、リーダーからだけじゃなくて、小さな子供や小さな人々からも神様のメッセージが私たちにあるということなんですよね。
それも本当に不思議ですが、そのような言葉を私たちが聞くことができるかどうかということも大切なことだと思いますね。ちなみに、その3人のうちのフランシスコとヤシンタとは、子供の時にすぐ亡くなってしまって、でも結局遺体が全く腐らないので、結局二人とも今聖人にもなりましたね。
列福されて、そして列聖されて一人残ったルチアは長い間カルメル会の修道女として全く人の前に現れず、90を超えて何年か前に亡くなられましたけれども、それもその3人の運命も不思議なものを感じますが、やはりそういう人々を通して、小さなものを通して神様が私たちにメッセージをくださるという、それを私たちが聞けるかどうかということですね。
しかも、神様のメッセージには2種類があると思います。一つは、私たちを慰めたり、励ましたり、心を温めたりするような温かいメッセージを主が語ってくださることもある。でも、それだけではなくて、時には私たちを叱責したり、厳しく私たちに迫ってくることもある。
ご存じかご存知でないか。ファチマのマリア様のメッセージはかなり厳しいものであることは間違いないと思います。温かい、心からです。けれども、実際は厳しいメッセージで、3つの預言をその時マリア様はされて、第1の預言が第1次世界大戦の終結について、第2の預言が第2次世界大戦の勃発とその終結についてですね、そして第3の預言が長い間封印されていてですね、それで物議を醸し出して、2000年に一応公開されたんですけど、でもそれは多くの人が一部分だけだと言われている解釈も、ベネディクト16世が教理省の長官だったラッツィンガー枢機卿の時代に、彼の解釈なんですが、どういうメッセージなのか。
ちなみにネットで見たら出てきますが、なかなか厳しいんですよね。
「既に述べた2つの啓示の後、私たちはマリアの左側の少し高いところに火の剣を左手に持った一人の天使が見えました。
しかし、その炎はマリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触れると消えるのですが、天使は右手で宙を指しながら大声で叫びました。『悔い改め、悔い改め、悔い改め』。それから私たちには計り知れない光の中に何か鏡の前を人が通り過ぎる時に、その鏡に映って見えるような感じで、白い衣をまとった一人の司教が見えました。
それは教皇だという感じでした。その他に、幾人もの司教と司祭、修道者と修道女が険しい山を登って行きました。その頂上には樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇はそこに到着なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を苦痛と悲しみにあえぎながら、震える足取りでお通りになり、通り過ぎに出会う死者の霊、死者の霊のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到着し、大きな十字架の下にひざまずいてひれ伏した時、1団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発も銃弾を発射し、矢を放ちました。
同様に、他の司教、司祭、修道女、修道士、そして様々な階級と職種の平信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の2つの腕の下にいた二位の天使は、各々手にした水晶の水入れに殉教たちの血を集め、神に向かって歩んで来る霊魂にそれをふり注ぐのでした。」
という、かなりおどろおどろしいメッセージです。けれども、単純にこれを読む限りは、第3の預言は、カトリック教会に対する大迫害がバチカンの消滅かローマ教皇の暗殺という、そのようにまだそれが来たか来ていないか、もうちょっとわからないですけれども、新しい教皇様がそのような苦難を受ける教皇になるかもしれないですけれども、やはりかなり厳しいメッセージを神様が私たちに与えられるということも当然あると思いますね。
問題は、私たちはそれをどう受け止めて、つまり神の声を聞いて、それに道を聞き、従っていくかということが、実は非常に大切なことではないかというふうに思います。実際、私自身はポルトガルのファチマという、ものすごく山奥の小さな村なんですが、そこで国際会議があったことがあって、そこに出席したことがあって、その会議が1週間から10日ぐらい続く長い長い会議で、そこにだからずっと滞在してたんですね。まさしくファチマで、昼間会議やってたんですけど、朝早くと夕方とか夜はもう、ご出現のところに行って、ずっとお祈りを捧げてたんですが、もう大小10個か15ぐらいの聖堂があるんですよ。小さな聖堂から大聖堂がある。
どこの聖堂に行ったって誰かがお祈りしてる。しかも、ただのお祈りだけじゃなしに、跪きながら歩いてくる。何か苦行をしている人たちもいっぱいいてね。その雰囲気がものすごい祈りと、そして何と言ったら言葉で表現できないけれど、清らかな感じっていうんですかね。
空気がものすごく青々とした清らかな空気が流れてて、これは本当にマリア様の心にかなっていると思うぐらい、この世俗的なものがなくてですね、ものすごい清い、清らかな青空のようなものが広がる空気感があって、それで僕は何かこのファチマのメッセージというか、マリア様の心が何かよく分かったような気持ちにその時はなりました。
メッセージを私たちが神様のメッセージをどう受け止めるのか。ファチマのそこの聖地はもう明らかですけど、祈りと苦しみを捧げる、しかも清らかな心の中で。そのように私たちがメッセージを受け止めて生きていける時に、神様の声を聞いて、私たちはそれに従っているというふうに言えるんじゃないかなと思います。
結局、ファチマの第3の預言は、この日本の世界中の、オカルトファンというか、スピリチュアルファンの中でも様々ないろんな事が世界の終わりだとか、いろいろ本物のメッセージは、私たちを怖がらせたり、怒らせたり、何か煽るような、何かそういう変なものじゃないと思います。
神様からの本当のメッセージは、それがいくら厳しくても、そこから祈りや苦しみをしっかり受け止めていって、清い心で生きていく。そういうものが生まれるかどうかということだと思うんですね。
もう今はSNSの時代で、何か訳の分からないメッセージが山のように来ています。
騒ぎから何か変な政治家を押すような動きとか、いろいろな陰謀論から、もう何から何までそういうものに私たちがそういうメッセージを聞いて、それに囚われていく時に、やっぱり心の中に不安とか恐れとか、何いうか何とも言えないイライラした気持ちとか、何か訳の分からないものに振り回されている。
それはやっぱりどう見ても神から来ているのではないではないと思いますね。
いろんなメッセージが私たちの思いに届くような時代になったからこそ、それが厳しいものであれ、あるいは慰めに似たもの、見てきたものであれ、私たちはしっかり神の声を聞いて、それに、私たちが誠実に、謙虚に応えていく。
それが私たちに本当に必要なことじゃないかというふうに思います。そして、それが本当のメッセージだったら、そこから私たちに祈りの心が生まれて、苦しみを受け止めていく勇気が与えられて、そして本当に清い気持ちで私たちが歩んでいける、そういうふうに聞き従っていくということ自身は、本当に大事なことじゃないかなと思いますね。
ファチマの雰囲気の祈りに満ちた清らかな雰囲気というのは忘れられないですけれども、どっちかというとルルドの夜もいい感じが、ルルドも聖地で、行かれた方もおられると思いますけど、ルルドではイエスの愛を求める気持ちがちょっと強い感じがするんですけど、でもファチマは何か純粋に祈りを捧げるような感じがして、何かもっと清らかで、もっと深みがある思いますね。
日本だったらもう忘れられた聖地ですけど、秋田の聖母というところがあって、本物の日本人の人は知らなくて、今ほとんどフィリピン人と韓国人の巡礼者しか来ないようなところになりましたけど、マリア様が、木造のマリアが涙を流して、そしてシスター笹川という人にマリアさまがメッセージを語られたところで。シスター笹川も去年に亡くなられましたけど。
そこが好きで、私はよく行ってそこで黙想するのですが、秋田のマリア様の所とファチマと全く同じ雰囲気なんですよ。祈りの雰囲気と清らかなこの空間が広がっている感じがとっても瓜二つ。ファチマのメッセージと、秋田のマリア様のメッセージもほぼ同じなんですけれども、私たちがやはり神様の呼びかけをよく聞いて答える、それは本当に私たち一人一人に大切なことじゃないかなと思います。
そして、この長府教会はファチマの聖母を保護の聖人にしているわけですから、私の願いは、この教会自身が深い祈りの場であって、私たちが苦しみを、自分たちとして、ある苦しみを心から捧げることができて、そして本当に清い場というか、世俗的な泥にまみれていない清い場になっていくということが、この教会の一番大事な役割じゃないかなということは強く思います。
私たちがこのファチマのマリア様のお導きの下、一人一人が本当に誠実に、謙虚な心で信仰生活を、祈りを捧げていくことができるように、心を合わせ共に今日は祈りを捧げたいと思います。
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