マタイ福音書 12章38-42節「囚われの海を渡る」

マタイ福音書 12章38-42節「囚われの海を渡る」2025年7月21日いやしのミサ旅路の里
モーセによってエジプトから出たイスラエルの民はしばしば不平を言います。昔の奴隷状態の方が良かったとまで言うのです。
実は囚われの中で生きる方が楽です。ですが、自由も喜びもありません。困難は続くでしょうが、それでも神様の方に向かってイエス様について行きましょう。

今日のお説教は第一朗読のお話がメインです。
第一朗読 出エジプト記 14章5-18節
(その日、)民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったがエジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
福音朗読 マタイ福音書 12章38-42節
(そのとき、)何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
囚われの海を渡る
第1朗読が今読んでもらった出エジプト記というところからの朗読で、非常に印象的なところですけれども、今から3500年前のことですが、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態で非常に苦しんでいたのですね。そこでモーセという預言者であって、リーダーが現れて、神から遣わされて、そしてモーセをリーダーにして、このエジプトの奴隷状態からこのファラオと戦って、そこから抜け出してエジプトを出発したのですが、このファラオがその後また気持ちを変えて、たくさんの奴隷がいなくなったら困るから、
彼らを取り戻すために軍隊を送ってトライに行ったわけなんですよね。それで追い詰められて、紅海という川を渡らなきゃならなかった。川があって、上の海があるわけですよね。それで追い詰められたんですけれど、結局モーセが杖を取ってですね、その杖で海を撃てば、この海の水がパッと開けて、陸地が現れて、それでイスラエルの民がその渇いたところに逃げて逃げて、シナイ半島という、今のイスラエルなのですが、パレスチナの側にとにかく渡って、渡りきった後にモーセが杖をもう一回持ってですね、ここの海を叩いたら、この分かれていた海が戻っちゃってですね。で、エジプトの大群が全滅してですね、助けられたというイスラエルの民がみんな助かって、エジプト軍が全滅したという、そういうところがこのところなんですが、まあなかなかこれはすごいところで、昔「十戒」だったかな、映画にもなって、こういうところがものすごく描かれてる映画があるんですよね。見たことがあるかと思いますが、旧約時代の一番すごい奇跡っていうか、一人が助けられるというよりも、イスラエルの民全員が助けられて、それで今のイスラエルの国のあるところに、次のリーダーのヨシュアに連れられて戻るという話なんですけど。なかなかあれなんですが。
このお話で実は一番思い出すのが何かと言ったら、20年前、ここにずっと住んでいた時に、聖書の勉強会やってやっていた時に、一人の労働者がいて、なかなかちょっと変わっていて、勉強会でも割といろんな意見をいろいろ反論したり面白かったので、いろいろ話す人が居てですね、彼が彼はだからこの福音書の中でイエス様が奇跡を行ったことを全部否定して、イエスが奇跡とか行ったはずがないということをいつもいつも言っていたんですよね。フランシスコ会の本田神父さんも奇跡否定派だから、本田神父さんがわりと同意見で、奇跡なんか何もないと言っていて、それだけではなくて、まあここはモーセで、イエスの話じゃないんですけど、モーセとイエスがいつもごちゃごちゃになって、それで海が分かれて、道ができて、通って逃げたとか、そんなことはあり得ないとか、彼はしきりに言っていたんですけど、でもなんか1年ぐらいやっていたら傑作で、彼らが最後どうやったかで言ったら、こんな奇跡は絶対あり得ないけれど、僕の人生で経験したことあるって言ったんですけど。助け出された、窮地に追い込まれて、もう自分がもうだめだと思った時に、やっぱり神の力が働いて、ぱっと開けて助けられたことはあるって言って、ほんま神の言葉は生きているなと思いましたけど、別に3500年前あったかなかったか、別にあったかなかったか喋っても仕方がないけれど、人生で彼はこれを経験している。だからもう聖書の言葉は生きていて、やっぱり私たちが囚われたり、もうだめだと思った時に、やっぱりぱっと開けて助けられることは人生に何回かあるでしょうが、しばしばはないけれど、でもあると思います。
一応キリスト教では水が分かれて向こう岸に渡れで助かったというのは、洗礼の恵みの前表と言って、それを表している。だからもうみんな私たちを助けられてるっていうか、奇跡がみんなの中に働くことがあるわけで。だから私たちが今日は癒しということですけど、癒しも救いも全部同じですよね。
私たちはやっぱり神さまから助けられてる存在で、しばしば、しょっちゅうじゃないかもしれないけど、でも人生で時々はある。神さまは特別に恵みを与えてくださるということですよね。だから彼は何かいつも否定してるようで、めちゃめちゃ信者だった、大事なところは全部分かってたから。
彼のエピソードもいっぱいあるんだけど、ともかくやっぱり私たちは救われているというかですね、神の恵みによって。
そのなんていうのかな、凄さをやっぱり生きなきゃならない。
で、このイスラエルの民が情けない。すぐ文句を言う。モーセにエジプトの軍隊、軍隊が迫ってきても、殺されそうになったら、モーセに文句を言うんですよね。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」って言ってですね、我々をほっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬより、エジプト人に仕える方がましですって言ってて。
ほんとそうですけれど、結局ね、囚われている方が楽なんですよ。
奴隷状態の方が楽。何というか、罪とか囚われとか、何かに縛られて生きている方が楽なんですよね。それを乗り越えようとするのは力がいる。それを奴隷状態はやめて神さまの方に行こうとするのは簡単ではないのは確かですよ。
昔のように生きる方が絶対楽だから。それがお酒ばかり飲むとか、あるいは怠けてしまうとか、薬物ばっかりやっちゃうとか、何かそっちに留まる方が楽。楽だけど、自由もないし、喜びもない。でも、そこに留まりたいという人間の気持ちもしばしば起きてきますよね。
だからやっぱり私たちは勇気を持って神さまの方に行かなきゃならないというのかな。その囚われた世界を置いて、やっぱりそれを越えて行かなきゃならないんですよね。でも、越えて行こうとする時に、神の力が、手助けが私たちにあるから、私たちはそれを信じて、希望を持って未来に歩んで行くということですよね。それが本当に大事だと思います。
イエス様はやっぱりモーセ以上ですよ、イエス様は。今日の福音書ですけれども、結局、十字架にかかって、わざわざ私たちを奴隷状態から救ってくださったわけですから、自ら苦しまれて私たちを救われた。それは本当にモーセの比較じゃないぐらいすごい、まさしく、だからメシアであって神様なわけですけれど、そのイエス様が私たちに働くんだからこそ、私たちは少々の困難があっても、もうだめや、ダメやと思っていても、元に戻ろうと思った時に、やっぱり開いてくださって、乗り越えていける力を与えてくださる。それを私たちは信頼していきましょう。
困難がなくなるわけじゃない。この後もなかなか苦しいんですよ。荒れ野40年間。荒れ野40年だからね。私、もうずーっとテント生活で40年間野宿の生活民全体がしていて、40年後にやっと今の普通の家に住める生活。40年後ですよ、40年間。とにかくもう人生の大半はもう全部ずっと砂漠で野宿しながら、ずっとずっとずっと生きなきゃならないけれども、でもそれでも彼らはブーブー文句を言うんですけれど、モーセに励まされて、とにかく乗り切っていったわけですよね。
私たちにもしばしば困難なことが当然次から次へとやってくるかもしれないんですけど、でも、くじけないで、やっぱり神と共に一つ一つを乗り越えていってですね、やはり救いの世界に、神の国に、私たちは一歩一歩近づいていくことができるし、いったん失敗して離れたように見えても、また悔い改めて、もう一回でももう一回でも再チャレンジできますから。
私たちは神さまを信頼して、神の恵みのうちにですね、解放の道に、捕らわれの道から解放されて、本当に自由と愛という喜びを味わって歩めるように、今日のミサで祈りましょう。
自分自身のために、あるいは捕らわれている何か友人や仲間のためにも祈りを捧げたいと思いです。
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