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【ミサ説教】マタイ福音書 19章16-22節「神が造られたありのままの姿で」

hanafusafukuin

マタイ福音書 19章16-22節「神が造られたありのままの姿で」2025年8月18日いやしのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

ヘブライ語の「シャレム」はギリシア語では「完全」と訳されてしまいますが、日本語の「完全」の意味とは違って、「ありのまま」「神に作られたまま」という意味です。持っているもの、とらわれているものを手放してありのままの姿になること、貧しい人に愛の心を持って接する時、神の元で永遠の命、永遠の喜びの世界に入ることができるでしょう。

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マタイ福音書 19章16-22節

(そのとき、)、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

神が造られたありのままの姿で

今日の福音書は、ある意味、ちょっと悲劇的なお話でもあるけれども、まじめな一人の青年がイエスのところに来て、真面目に頑張っていたと思うのですが、永遠の命を得るためにどんな善いことをすれば良いでしょうかと聞いてですね、掟はモーセの中からですね、それはちゃんと守っているわけで、そこでそのことは守っていると。
まだ何か欠けているところがあるでしょうかというとですね。
イエス様の言葉がなかなか厳しく響くわけですが、もし「完全」になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさいということを言われるわけなんですね。

「完全」になりたいならということを言うわけですけれど、なかなかこの「完全」という言葉は実はなかなか翻訳は難しいと言われている言葉なのですが、日本語でも完全、新約聖書はギリシャ語で書かれているので、この「完全」という言葉は間違っていない訳なんですけど、イエス様がしゃべっていたのはヘブライ語か、アラマイ語で、ギリシャ語しゃべってないです。実際はですね。これはギリシア語に翻訳されているあれなのですが、ヘブライ語で「完全」というのは「シャレム」というのですね。という言葉なんですけど、でもそれは日本人、いやヨーロッパ人の考える「完全」とちょっと違って違っている「完全」なんですよね。
旧約聖書の中で出てくる何がシャレムなのかと言ったらですね、この例えば祭壇にするための道を山から持ってきて、その石を使いやすいように削ったり、そうしたら不完全なんですよね。やっぱり持ってきたそのままが「完全」になる。
つまり自然のありのまま、神様が作ったままが「完全」で、人間を手が加えたら不完全になっちゃうという言葉なんですね。そのシャレムというのは。
だから「完全」と訳さない方が。だからむしろありのままのそのままって訳す方が実は非常に近いことで、旧約聖書も、まあ旧約聖書はもちろんヘブライ語だからシャレムも出てくるんですけれど、例えばノアの方舟のノアはシャレムだったって書いてあるんですけどね。

そのノアのシャレムだったったってところも日本語の訳には全然違うんですけど、意味からとっているのか、「純粋無垢な」人だって書いてあるし、フランシスコ会訳は普通の訳で、「完全な人」だって書いてあるんですけど、でも内容的には完全というのではなくて、人間のはからいがない、ありのままの純粋な素直なそのものが、「完全」な神様が作ったものが「完全」だから、人間が手を加えた不完全になっちゃうというという言葉なんですけど、実際この話をすると長くなっちゃうんですけど、シャレムからシャロームが、だからシャロームっていうのは平和と訳されているけれど、ありのままなんですよね。実ははありのままのそのままがシャロームなんていうことなんですけどね。それもなかなか。だから、もしシャロームになりたいんだったら、シャレム、純粋無垢なものになりたいんだったら、行って持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさいと。イエス様は言ってるんですよね。
でも「完全」といったら努力して一生懸命完璧にならなきゃならない努力目標みたいな感じだと受け取れると思うんだけど、違うんですよね。
持ち物を売り払って貧しい人にと言ったら、「完全」じゃ日本語の言う完全と離れている。
だから、ありのままの素直に生きるんだったらそうせよと言ったら、もっとぴったりくる話なんですけど。

ただ、私たちが本当にこのイエス様の望むシャロームをどう生きていくのかということが、実際非常に大事なことであるということなんですよね。それをね、そのためにまず売り払うというですね、自分の所有欲とか執着を手放すということと、貧しいというのを施すという愛の行いをしろということが、私たちがシャロームになっていくための一番大事なポイントだと。
だから、掟を守るとか守らないとかっていうより、もっと根本的なことをイエス様はここでおっしゃって、それを私たちがどう生きていくのかということなんですよね。

それで、ちょっと話がちょっと飛びますけれども、最初の問いは、永遠の命を得るためにはということなんですよね。

じゃあ、永遠の命ってだいたいどんなものなのかということなんですけど、
聖心会でシスター鈴木という方がおられて、実は私知り合いなんですけど、その人とわりと親しくさせてもらっているんですが、彼女が本にも書いてあることだから、ちょっとその本に書いてあることで言うんですけど、彼女は臨死体験というのをするんですよね。この死にかけてこっちの世界に戻ってきたという話で、今もかなりおばあちゃんで90超えてるぐらいなんですけど、若い頃、大学の先生であちこちで講演会とかをされていて、東京で暮らしてるんですけど、わざわざ奈良かどこかの大学か何かに講演会か何かで来て、聖心会の修道院がないから地元のシスターの家に泊めてもらったんですよね。
自分が住んでいるところじゃないから不慣れなわけで。真夜中起きてトイレに行こうと思った時に電気をつけたら他のシスターがおきちゃうと思って。暗い廊下を歩いて行って、廊下だと思ったところが階段だったんです。で、そこから転げ落ちて、彼女は気を失って。臨死状態に陥っちゃうんですよね。
その時に彼女が見たものは何かと言ったら、最初は自分が倒れたところ。幽体離脱って自分の体を自分が見てるんですよね。幽体離脱というんですけど、それはよくあって、その後連れて行かれたところはどこかっていったら、何かね、蓮の台というか、蓮の花の上に自分が乗ってるんですよね。
それで、その世界は、すごい喜びなんですよ。その世界がものすごい愛と喜びに溢れてて、この蓮の花びらが1枚落ちるたびに、さらに大きな喜びが溢れてくる。この花びらがぽろぽろっと落ちていくわけですよね。この花びら、花びらが何かと言ったら、実は自分が生きてる時に経験した苦しみとか執着とかとらわれ。
それが1枚離れるたびに大きな喜びが溢れてきて、とにかくもうあっと全部落ちる、落ちるかなって時に、彼女はだからもうこの向こうの世界にいて、それがもう永遠の命だということを強く思うんですけど、それはラッキーだったかラッキーだったかわからないけれど、彼女はその時にシスターの声が聞こえるんですよね。
つまり、倒れたのが修道院だったから、そこのシスターたちがみんなも必死でお祈りして、今度は助かるようにお祈り、癒しのお祈りを一生懸命してて、その祈りの声を聞いて、彼女ははっと気がついたら病院で寝ている自分に戻ったって言ったら、シスターのお祈りで戻ってるんですけど、向こうのギリギリ向こうに行きかけたんだけど、あまりにシスターが強力になったから一気に引き戻されて。

それでその蓮の花に自分の立って全ての花びらが落ちた。それが自分にとって永遠の命だったことを強く彼女は感じて。それでその後、やっぱり臨死体験する人全員じゃないけれど、やっぱり特殊な賜物をもらう人多いんですよね。それから彼女は癒しの賜物と人を癒す力と、あとは未来の予知ですよね。
だからそういう賜物をもらって、その後それでいろいろエニアグラム等々もされたんですけど、とにかくそのことで非常に活躍されていた方なのですが。

だから、永遠の命に至る持ち物の売り払いっていうのはその通りなんですよ。つまり、執着を全部捨てたら、もう永遠の喜びなんですよね。それが、というか、本当のありのままの神様の作ったありのままに戻れるいうか。

貧しいの施しなさいって話なんですけど、また別の話で。
もう覚えてないから。昔の長崎の市長で本島市長という方おられたんですよね。もう大分昭和天皇時代の前の時で、いわゆる戦争責任のアジア太平洋戦争の戦争責任に彼は実際そう思ってたと思うんですけど、いわゆる昭和天皇にも戦争責任があるという発言を長崎の市長としてしたんですよ。
ものすごい右翼からのバッシングがあって、でも結局彼は自民党員だったけれども、自民党からもされた。結局その発言を撤回しなかったんですけど、それで右最終的にどうなったかって言ったら、右翼団体に撃たれんですよね。至近距離で左胸を打たれたんですけど、たまたま骨にかすって貫通したんで、肺も心臓もやられなかった。
でもその打たれた直後に彼が何を思ったかと言ったら、カトリックなんですよね。カトリック信者なんですけど、もう自分が死ぬと思った時に思ったことは何かと言ったら、自分が生きてる間にどれだけ人を愛したか、人を大切にしたかということが最後に記憶にでてきて、そのことを思いながらも自分は死ぬと思ったけど、もちろん意識がなくなったんですが、でもそれで生還して、1ヶ月ぐらいの入院で生還するんですけれども、でもその次の長崎市長は殺された。伊藤市長は殺されている。2発を撃たれた。
で、次の人は殺される、殺されるんですけど、とにかくその本島市長の話はやっぱりこう死に直面した時に、自分がどれだけ人をちゃんと愛して、貧しい人や困っている人を助けたかという問いだけが、最後に彼は残ったということを。本島さんはもう既に亡くなっているんですけどね。

だから、この後半が、だからこの通りなんですよね。もし本当に私たちがありのままの自分の良さを生きるならば、一つは執着を全部捨てる、囚われをこの世のトラブル全部捨てるということと、もう一つは貧しい人に施す弱い人や苦しんでいる人に愛の心を持って生きる。
この2つだけなんですよね。

だから、このイエス様が言っていることは、何か急にムチャブリされてるように見えるけど、でも本当のところの何かを求めるんだったら、この2つを生きていく自分のありのままの良さに立ち戻るというか、その良さを生きていくことだけなんですよね。

だから、あの掟を守る、この掟を守るということじゃない。それだけだということなんですよ。だから、ここでイエス様の言っていることはもう絶対の真実で、私たちもこれだけある意味でのところは、生きていく上で良いとか悪いとかって言うんだったら、この2つなんですよ。
この2つを私たちがどれだけ実践できるか。その他のことは、実は、まあ日々の生活ではあそこが痛いとか痛いとか、あっちの病院行ってとか、薬飲んでとか何とか、この仕事いろいろいろいろ。もちろんやらなきゃならないことはお金の整理しなきゃならないとか、いろいろいろいろ。でもまあどっちでもいいんですよね。それは本質じゃないんです。

だから本当に本当のシャレム、本当のシャローンの生きていくためのコツは、ただこれだけだということですから。自分の囚われをどれだけ置いて、困っている人に愛の心を持って生きていくかという、まあ、これさえできたら何の問題もないから、イエス様は真実のことを彼に伝える。でも彼はできなかったですね。
なんでかと言ったら、財産が多かったという他のところに出てきますよね。お金持ちが天の国に入るにどれほど難しいことかって、イエス様がため息のように。だから、この蓮の花が全部落ちないとダメなんでしょう、花びらが。

でも、みんなこの花びらに執着して、これだけ、これだけ持っててって言うからダメなんですよね、全部手放せば。だから、かえってこの釜の労働者の方が天国に近いんですよ。持っているものを少ないから面白い、いろんな物を囚われもあるけどね。アルコールとかギャンブルとかいろいろ多いけど、でもどっちかというと貧しい人の方が天国に近いんですよ。
執着する方が少ないからなんですよね。
逆にお金持ちはたくさんあるから、執着がなくっても、花びらがいっぱいいっぱいあっても、捨てるのにすんごい時間かかっちゃうという、そういう単純な話なんですよね。

私たちがそのような本当の「完全」というか、本当に神さまの本当のありのままのそのままを生きていけるというですね、どうせ死ぬ時にそうなっちゃうんだから、今からやったらどうですかというさまがわざわざアドバイスしてくれてるわけですよね。

それを私たちが大事にして歩めるように。もちろんこの青年のようにこれはダメだ、これはいろいろあることもあるけれどもね、なるべく手放して、神さまの心を素直に生きていけるようにですね、一人一人、あるいは病気の方もそういう心で歩めるように祈りを捧げたいと思います。

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