【ミサ説教】ルカ福音書18章1-8節「願い求めるプロセスこそ」

ルカ福音書18章1-8節「願い求めるプロセスこそ」2025年10月19日年間第29主日ミサ防府カトリック教会
信仰とは、単に聖堂で祈ることだけではありません。自分のできることを精一杯果たすなかで、結果にかかわらず神の恵みの世界が開かれるでしょう。

英神父さんは防府教会に異動となりました。
今週は年の黙想に入ったりするので、少しウェブの更新はペースダウンです。ご了承ください。
福音書朗読 ルカ福音書18章1-8節
1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
願い求めるプロセスこそ
今日の福音書はルカの18章、絶えず祈ることの大切さを教えるために、イエス様が一つの譬え話を話されるわけですね。このやもめ、やもめというのは、旦那さんを亡くした未亡人の女性ですけれど、当時は特にやはり男性中心の社会でしたから、男性を、男性のパートナーを亡くした女性は非常に不利な立場に置かれるわけですよね。
だからこそ、何か非常に大きな何か被害を受けていたので、その裁判官に裁判をしてくれということを度々、この人はしつこく、たぶん家まで行って、朝も昼も晩も行ってお願いしていたのではなかろうかというふうに思います。
確かに今でも裁判というのはなかなか難しいというか、やはり裁判が、ある意味勝つというか、ある程度の判決を得るのは、実はそれほど単純なことでもないということも言えると思いますね。というのは、ちょうど私の今、ここの仕事以外に、大阪の釜ヶ崎というですね、もと日雇い、今でも日雇い労働者の街で、そこに旅路の里というイエズス会の司牧センターがあるんですが、そこの責任者をやっていてね。それで実は先月だったか今月の初めか、私が深く関わっていた労働者が逮捕されてしまって、それで実は先週裁判だったんですね。その裁判に私は証人としてちょっと出ていてね。それで彼を弁護する側に時々そういうことがあって、ちょっと罪人と関わると、どっちかというと加害者の方の弁護に入ることが多いんですが、実はとにかく先週、その裁判で一生懸命彼のことを弁護するような形でやっていて、今週判決があるんですよね。だから、判決のためにまた大阪に行かなきゃならないんですけども。
今回が初めてじゃなくて、前もそういうことがあってですね、なかなか裁判というのは大変大変というか、この弁護士、結局弁護士対検察の戦いになるんですけど、どれだけ弁護士の方と相談して、どのような形でやっていくかみたいなことを相当相談したり、それで裁判の時に何を言うかとか、いろいろ考えてですね、日本の裁判所は割と公正なので、賄賂とかそういうのを別にいらないんですけど、それでもやはりかなり神経を使うことなんですよね。
このやもめの女の人が一人でですね、この裁判を始めることよりも、裁判の後、当時がどのような弁護士制度とか、検察がどうだったとはっきり分からないんですが、いずれにせよ、裁判が始まるだけじゃなしに、裁判の中でどうするかとか、このやもめの人は相当何というか、努力というか、大変な、やっぱり有力者が何かがいないとなかなか難しいわけですね。
例えば弁護士、今だったら弁護士さんにお願いするにしても、普通はやっぱりいろいろな関係ある弁護士さんに頼んだりとか、何とかかんとか、やっぱり弁護士、いい弁護士につくかどうかでも大きく判決が変わってきたりするわけですけど、その中でこの寡婦の人が頑張っているということなんですよね。
私たちは。まあそんなに裁判に関わる人はそれほど多くないかもしれないですけど、でもやはり私たちが何か困難があった時にどういう態度をとっていくかということなんですね。
今日の最後のところでイエス様はこう言うんですよね。人の子が来るとき、世の終わりの話ですけど、「果たして地上に信仰を見出すだろうか」ということで終わってるんですね。
この信仰というのは一体何を言っているのか。
このやもめの例えからも明らかだと思いますけれど、一つは、願い求めて一生懸命するということですが、単に祈るだけじゃなしにですね、この人はもう絶対この裁判官の家に朝もお願いに行って、夜にもお願いに行ってですね、相当この行動というか、自分の行いもかけて、この裁判官のところにお願いに行ってるわけですよね。
だから、単なるお祈りじゃなくて、やっぱり自分のできることをどれだけ一生懸命やるか。
だから、この信仰っていうふうに福音書に「信仰」って出てくる言葉は、だいたい祈りとか願いに置き換えられるんですけど、でも祈りとか願いと言っても、ただ単にお聖堂で祈るだけじゃなしに、実際自分が何をできて、自分のできることを精一杯果たせるかどうか、そこに「信仰」という言葉をイエス様が使ってるんですね。
私たち、あるいは皆さんが何を本当に願って毎日生きているのか、信仰者として何を願っているかということと、それを本当に願って、それが達成されるように、どれほど工夫というか、自分なりの努力と、それを費やしているかどうかということなんですよね。
それが私たちの信仰として問われていることだというふうに思います。
人の子が来る時、世の終わりというのは非常に混乱した大変な時のことを想定されてるんですけど、その時にこそ信仰を持って私たちが祈り行動していけるかどうか、自分ができることを100%果たしてやっていけるかどうか。
そこに私たちの信仰の質があるし、そこに私たちのやっぱり信者としての生き甲斐というか、喜びもあるのではないかというふうに思いますね。
結局、私たちが裁判、最終的にとにかく今関わっているのは、今週水曜日にとにかく判決が出て、まあこちら側の願っている通りになるかどうか、それはちょっとわからないんですけど、やっぱり結果がどうというよりは、その結果に向かったプロセスがどうかということなんですね。
それで思い出すのが、皆さんあんまり高校野球ファンの方もおられないかもしれないですけど、夏の甲子園で多分一番最高の試合が、時々テレビでランキングが来ますけど、一番最高の試合は、私が思うには1988年の夏の甲子園の準々決勝だったと思うんですね。
ファンじゃない方はちょっとわからないかもしれんけど、横浜高校対PL学園の試合だったんですよ。横浜高校は松坂という、今引退しましたけど、当時は抜群のピッチャーがいて、それにPL学園が戦うという試合だったんですよね。なんと普通野球って9回までなんですけど、その試合はなんと17回までやったんです。
ほぼ2試合分をやってたんですけど、松坂が投げてこれで勝つかと思ったらが点を取って、それでどんどんどんどん延長戦になっていってですね、もうそこのその試合は本当にすごい。とうとうとうとう最後の17回、ほぼ2試合分で松坂は一人で200球ぐらい投げるんですけど、ようやく17回までやって横浜高校が勝つわけなんですけど、勝った時の風景というか、選手のこの姿が忘れられない。
横浜高校勝ってるんですけど、勝った方がみんな泣いてるんですよ。もう手を尽くしてやったから。負けた方の学園の選手はみんな笑ってたんですね。だから普通は勝った方が笑って負けた方が泣くんですけど、17回まで本当に死闘を尽くして、お互いの持っている力を出し切った時に、負けた方が笑っている、勝った方が泣くというですね、ひっくり返っているんですよね。
皆さんが自分の人生でこれだけやり尽くした、これだけ一生懸命ベストを尽くしたと思える体験は、いろんな人の話を聞いて思うんですけど、成功しなかったことの方が実は全力を尽くしたと思えることは多いんですよね。これだけは自分は尽くした。
でも結果が出なかった。でも、そこに何か本当に生きがいとか喜びとか得ることが多いということなんでしょうね。
かえって安易に成功しちゃったら、それは神様に感謝ですけど、やっぱり何か物足りないところがやっぱりある。
私たちが様々な何か試練とかあるかもしれない。
家族の問題とか、仕事の問題とか。でも、そういうことに直面した時に、どれだけ願って祈って、自分のできることをこうしてやるかっていうですね。そこにこそ私たちの信仰の一番大事な、もちろん私たちは人間的な努力だけじゃなしに、神の恵みの中でそれを果たしていくわけですからなんですね。
私が関わった前の裁判前の裁判、なんと弁護士さんを頼んで殺人事件だったんですよね。前は、10年前の殺人事件で殺人犯を弁護してたんで、非常に複雑な気持ちで。でも弁護士が3人関わって、とにかく必死でやったんですけど、結果的にはやはり検察の方に近い長い懲役刑に決まったんですけど、でもやっぱり何かがあって、チームを作って、みんなでこうやり切る、やり切る。
結果がどうであれ、望んでいる結果であろうがない結果であろうが、やっぱり尽くしてやった時の方が記憶に心に残ってて、何かこの神に感謝の気持ちがより強いっていうのかね。
そこにこそ喜び、人生の本当の喜びっていうか、信仰の喜びがあるんじゃないかと思います。
このやもめも裁判が始まったばっかで、実際この判決がどうとか書いてないからで、思い通りの結果になかったかもしれないけど、でもやっぱりやり尽くすっていうことに、私たちのやっぱり生きている者の証があるって言うかですね、私たちはやっぱり年をとれば、どちらかというと成功体験よりもあれができない、これができないの方が多くなりますけれども、その中で私たちが本当に何を願って、何に自分を尽くしていくのか、本当にそこにやりきった時にこそ、やはり神様の恵みの世界が本当の意味で与えられる、広がってくる。そこに私たちの信仰の本当の醍醐味があるんじゃないかなと思いますね。
私たちは力が足らなかったり、何かあれができないとか、いろいろありますけど、だから神に祈ったり願ったり、時間がないとか、お金がないとか何とかいろいろ。
だからこそ、私たちは神に頼り切って、自分にできる小さなことを100%行っていく。それこそ私たちの信仰生活の一番大切なことだと思いますね。私たちが神の恵みに合わせて自分の生き方と合わせていくとき、そこに信仰の喜びがあると思いますから、
その恵みに私たちが与っていけるようにですね。今週もこの1週間、そういう気持ちで神のみ旨を果たしていけるように、主に祈りを捧げたいと思います。
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