マタイ25章14~30節「マイナス思考はやめようー神は癒し主」
2008年11月6日 マタイ25章14~30節「マイナス思考はやめようー神は癒し主」癒しのミサ 東京
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
今日の福音書はマタイの25章のたとえ話ですが、有名なお話で、ご存知の方も多いと思います。このタラントンという言葉から、タレントという言葉ですね、英語のタレントという言葉が出て、それは結局、才能とか、能力とかという意味で、そこから日本語で有名タレントとか、テレビタレントとか、テレビに出てくる有名人のことをタレントと呼ぶようになった、その語源がこの、タラントンという、このお話のわけですね。この、聖書と典礼の下のところにね、1タラントンというのはいったいどのくらいか、ということが書いてあるんですが、6千デナリオンだと書いてあるんですね。だいたい1デナリオンていうのはどのくらいかと言ったら、だいたい日雇い労働者の1日の賃金なんですが、もちろん、今ちょっと景気が悪いから、安いかもしれないけれど、まあ、計算が簡単にして、1デナリオン、だいたい1万円くらい。…今じゃ、1万円くらいもらえるのはそうとういい仕事かもしれないけれど、とにかく、1デナリオンがだいたい1万円と計算したら、1タラントンというのは6千万円になるわけですね。
6千万円渡されて、これで、あなた仕事しなさい、と言われたら、仕事して稼ぎなさいと言われたら、たしかに普通の人だったら、なかなかちょっと、戸惑うかもしれない。5タラントンになったら3億円ですね。3億円急にもらって、それで商売しろって言われたら、やっぱりちょっと、なかなかちょっと。6千万円預かって、それで家を買えっていうんじゃなくて、それで商売をしろって、それでお金を増やせっていうわけですね。だから、今みたいに経済が悪くなってる時だったら、たしかに、銀行に預けたって、銀行が倒産したら、預金が保障されてるのは1千万円だけですから、あとの5千万円はなくなるわけだし、どっかのヘッジファンドに預けてたって、6千万円が半額になってっしまう可能性とか。じゃあ、自分で6千万円預かって商売できるかといったら、それはちょっと、よっぽど自信がないと、6千万円を生かすというのは実際上、難しいわけですよね。そしたらもう、いっそのこと、銀行が危なければタンス預金でもして持ってましょうか、っていう…でも、イエス様はそれはだめだと言われるわけですね。もちろん、ここで言っているのは、神の国のたとえ話で、実際のお金を儲けるかということと、実際はまったく関係ない。実際は、神の国のたとえとして言っているのです。そしたら、このタラントンと呼ばれている、あるいは、6千万円というのは、私たちにとって何なのか、ということを…まあ、考えてみなければならない。そして、6千万円を、こう、生かしていくというか、それをこう、増やすということは、どういうことなのかということを見なければならない、ということだろうというふうに、思うんですね。ある意味で、私たちが頂いている神様からの恵み、まあ、皆さんひとりひとり、貯金がいくらあるか、違うでしょうが、でも、お金に換算されない、家族からのサポートとかですね、あるいは、病気になったとしても、人によるでしょうけど、友人からの支えとか、もっと言えば毎日、病気でありながらも生きられて、日々を迎えることができる。たとえば、ここまで足を運ぶことができるということは、病気にかかってたとしても、ましなほうですよね。ほんとに病気が重い人はここまで来られないわけだから。そういうことを考えると、私たちが頂いている神の恵みは、6千万円で、実はおさまるかどうかと言えば、実際おさまらないくらいお恵みを頂いている、ということに、ひとつは気づかなければならないかもしれない。タラントンという言葉を見てると…「トン」をとったら、「タラン…足らん」という…、私たち、あれも足らない、これも足りないというか、足らん、タラン、と聞こえたりして…むしろ、もらってるんじゃなくて、どれだけ私たちは足りないかというみたいな、あれも足りない、これも足りない、特に、病気の時はよけいそうだと思います。あれもできない、これもできない、あるいは、非常になにか、こう、マイナスに物事を考えて、足らん、というか、私は関西人だから、あかん、とかですね。とにかく、だめだ、だめだ、と。引き算で物事考えて、あれもできない、これもできない、というふうに、マイナスで考えますが、でも、実際上はですね、ほんとにマイナスかどうなのか、自分の、全体的な恵みから考えたらどうなのか。もちろん、5タラントンとか、10タラントンとか持っている人も、もちろんいないとはかぎらない。けれども、私たち一人一人に、1タラントン、6千万円くらいのお恵みが与えられているということ、それを私たちは思いださなくてはならないこいとではないか、ということですね。引き算していたら、きりがないわけですよ。あれもできないとか、病気によっては、甘いものが食べられないとか、アルコールが、もう飲めないとか、そこにも行けなくなったとか、なんとか、かんとか、ということですが、しかし、逆の発想から考えなければ、私たちの、このなんていうかこう、神様に向かう救いの道そのものが見つからないんじゃないかと。それと、もうひとつのことですが、この6千万円、1タラントンもらった人は、なにが問題だったといったら、結局、怠け者だ、と言われたんですね、神様から。怠け者の悪いしもべだと。でも、なんで彼は怠けたのか。それは、彼はこう言い訳してるんですよね。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」と。恐ろしくなり、とあるわけですよね。つまり、彼の怠けの原因は、恐ろしかったからだと。恐ろしさ。否定的な感情というか、しかも、神様が恐ろしい方だから、それで恐ろしくなった。そこで、なにか、いただいている恵みを、土の中に埋めざるを得なくなった、そういうことになるわけですね。まあ、もしかしてこの人が事業に失敗したら、責められなかったかもしれない。6千万円使って仕事してみて、それですっからかんだったら、逆に、責められてない可能性もやっぱりあったんじゃないかと。つまり、なにもしなかった、しかも、恐れにとらわれて、縮こまってしまって、そしてお恵みを地の中に隠してしまったわけですね。これも考えさせられるような気がします。というのは、当然、ですけど、やっぱり病気の時は必ずマイナス思考ですよね。間違いなく。あれもだめだ、これもだめだ、っていう。もうなにもできなくなって、自分の人生はもう終わりだ、みたいな。でも、実際の問題は、もちろん考え方そのものもそうですが、マイナス思考と、マイナス思考からくる、恐れの感情とか、不安、心配、とかですね。あるいは、そういうものに私たちが振り回されて、結局はどうするかと言ったら、自分のお恵みを土の中に埋めてるってことですね。怠け者、というようり、個人的には悲劇だと思いますね。別に、埋めなくていいものを勝手に埋めてる。なんで埋めてるかっていったら、自分の心が縛られて、それでもう、埋めちゃってるわけですね。埋めてしまったら確かにもう、なにも使えないわけですね。で、私たちはどうなのかというと、ほんとに使えないということではなくて、恐れの感情から縛られて、いいものまでも土の中に埋めてしまっているってわけですよね。多くの人を見ていて思いますが、埋めてる人が多いですね。自分はもうだめなんだと、自分で勝手に決めて、自分のいいものをすべて土のなかに埋めて、ないものにしてしまっているように、見えるような…ほんとにそうかは本人じゃないからわからないですが、そういうふうに見える人が多いように思います。もちろん、足らないところがあったら、病気なんだから、これができないとか、あれができないとか、心配とかもちろんあるかもしれないですけど、それ以上見なくちゃいけないのは、大事なものまで埋めてしまっていて、できることまで放棄している、あるいは、あまりのマイナス思考の中で、自分ができることまで土の中に埋めてしまっているとしたら、それは非常に残念なことじゃないかなと思うんですね。でもそこから、どうやって方向転換できるかということですが、簡単に言えば、恐れの感情を横に置く、ということから、マイナス思考、自分はとてもだめなんだとか、これはできない、とかですね、あるいは、夜になったらうつうつとして眠れなくなったりとか、まあ、そのような気持ちを、とりあえずは横に置いて、自分の…なにが埋まっちゃっているか、もう忘れちゃってる…畑を耕すところからはじめて…つまり、心を神様に開いて、やはり、信頼の心からスタートする。つまり、これはキリスト教ではっきりしてますよ。ヨハネの9章ですけど、罰で病気じゃないって、はっきり書いてありますから。罰で、病気になったんじゃないと。ヨハネの9章に、イエス様がはっきりおっしゃっている。生まれつきの盲人を前にして、この人が病気なのは、両親が罪を犯したからですか、本人が罪を犯したからですかって、聞くわけですよね。でも、イエス様ははっきりと、違いますって言うわけですよね。この人に神の業があらわれるためだとはっきり書いてある。で、もう、それを信じてる人はあまりに少ないと思います。やっぱり、親の責任だと思ってたり、自分が悪いと思ってたり、結局はなにかが悪いから、こうなってしまったんだという、運命論、というんですかね、因果法則にとらわれてて、これがこうなったから、自分はこうなってしまったとか、親の育て方が悪かったからこうなってしまったとか、いろいろ考えて、それでなにか、こう、ある解決、というかですかね。だいたいどっちかですよ。たとえば、特に心の病気がそうですが、自分のせいにしてるか、親のせいにしてるか、だいたいどっちかですよ。親も、そう思ってたりして…子供の育て方が悪かったからこうなっちゃったんだ、とか、そこからもう全部、いいものまで土の中に埋めてる可能性はあるわけですよね。でも、イエス様はそんなことをどこにも、ひとことも、書いてない。とにかく、罰だから病気になったとか、ひとことも新約聖書には書いてないわけですよね。イエス様がしたことはなにかと言ったら、病人を癒したっていう話が、山のようにいっぱい実際は書いてあるわけですよね。それを信じるかどうかです。信じるっていうことは、そのようなものの見方で、自分の生き方を方向づけていけるかどうかということですね。それは、まあ、このたとえで言うならば、信頼してその1タラントンを使おうとしていくか。もちろん、これは商売の話じゃないので、自分にいたふぁいてる恵みを生かそうとすれば、当然、寛大なる神様が、私たちに力を与えてくださって、1タラントンを2タラントンに、2タラントンを4タラントンに、4タラントンを8タラントンに、つまり、自分の力でするんじゃなくて、神の恵みが働くからそのように変わっていく。問題は自分の心の置き方を、基本的には問うてるわけですよね。イエス様は罰する方ではなくて、私たちを助ける方であるわけですよね。だから、癒し主のわけです。それも、非常にはっきりしている。多くの人は自分で自分を罰している。この人も実際自分で自分を罰して結局は、負のスパイラルにとらわれて、ぐるぐる、いっちゃってるわけですよね。でも、神様が私たちに示してるのは、恵みのうえに恵みを与えてくださる…なんていうんですか、恵みのうえに恵みを与える、という、プラス思考の中で恵みを私たちにくださってるわけですよね。それを私たちが信じていくことだと思います。そして、こうやって、皆さんで癒しを願うということは、まさしく、罰からの解放を願うんじゃなくて、神の恵みがもっと私たちにあらわれるように、私に与えられてる1タラントンも使わなければならない、それをどんどん生かしていけるように、神様の恵みによって、私たちが神を信頼して心を開いて、そして、今日と未来に向かってプラス思考で生きていく、そのようなことを私たちに語っているんだと思いますね。持っている人はさらに与えられる。なにを持っているのか。最終的には信仰しかないと思います。私たちにとって。信仰を持っているならば、主がもっとわたしたちの信仰を強めて、やはり、歩んでいく力を与えてくださる。まあ、それを私たちは実際信じてるんだろうと思いますね。あまりにマイナスな考えとか、とにかく、それはちょっと、置いて、神様への信頼を持って、自分のタラントンを、自分の良さを、自分の恵みを、生かしていく、あるいはそれに向かって、それをさらに生かしていける、そのような恵みを祈りたちと思います。その、癒し主の神様に心から信頼して歩めるように、このミサの中で互いのために祈りましょう。