マルコ福音書8章14-21節「イエスの恵みを心に刻んで生きる」
2009年2月17日マルコ福音書8章14-21節「イエスの恵みを心に刻んで生きる」黙想会、名古屋にて
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
今日の福音書はイエス様が弟子たちと舟に乗って、舟の上での議論ですね、たまたま、弟子たちはパンを一つしか持っていなかった、それまでにイエス様は2回、パンの増加の奇跡を行われているわけですね、1回目は五つのパンと二匹の魚で5000人が満腹したという、2回目は、七つのパンで4000人が満たされた、ま、そのような、非常に大きなイエス様の救いの御業が行われて、それを、この弟子たちは、イエス様がパンを増やす手伝いまでしてるわけですよね。そのような、彼らは体験があったわけですけれども、でも、その後の話ですよね。この、舟の中にパンがひとつしかなかった、イエス様はパンの増加の奇跡の後に、さらに、なんというのか、学びを進める、というか、もっと深いところでイエス様の話を続けたかったわけですよね。
ファリサイ派とヘロデのパン種という、別の話をイエスはしたかったわけですよね。ところが、弟子たちはですね、いろいろイエス様の言うことを聞いて、これは、自分たちがパンを持っていないからだろうと考えたんですね、パンがひとつしかなかったということを責められたと思ったんですね、でも、まったくイエス様の考えと、弟子たちが、こう、ずれている話のわけですね、彼ら弟子たちにしてみれば、パンがひとつしかないということにとらわれてて、それでイエス様がそれを怒ってると。パンを持ってくるのを忘れたから、お弁当がないから、怒ってるんだと思ってたんですけど、イエス様の話はまったく違う話だったわけです。それで、イエス様が、覚えていないのか、と。5000人の人がお腹いっぱいになるくらいパンを増やしたじゃないか、と言ってるのに、弟子たちはひとつのパンしかないと、とらわれてるわけですね。こういう話はマルコにはよく出てきて、結局まあ、弟子たちの頑なさ、結局は信仰の足らなさみたいなところを、弟子たちの態度に対してイエスは怒ってるわけですね、まだ悟らないのか、と、叱る言葉を言ってるわけです。
でも、私たちも似たようなものかもしれない。今までの人生をちょっと振り返ったならば、イエス様の救いの業がどれだけ自分の人生に、あるいは周りの人に働いているのか、神様の恵みの大きさということは、まあ、ちょっと祈りをして過去を見れば、あるいは現在を見れば、イエス様の恵みの大きさというのは限りないわけですよね。でも、この、イエス様が何千人にも食べ物を与えるような恵みの大きさを私たちもちょっとは感じてるわけで、そうであるのに、パンがひとつしかなかった、とあいかわらずとらわれていて、昔のことはすっかり忘れて、今もパンがひとつあるとか、ないとか、どうしたらこれでみんなが食べるんでしょうとか、私たちはそうしてまた結局とらわれの世界に戻っている。せっかく神様の莫大なる恵み、深い、私たちへの心遣いを感じながらですね、結局それを私たちの心に刻まないと、結局また、パンがひとつとかふたつとか、足りる、足らない、それをどうやって分けるとか、分けたらいいとか、いけないとか、っていうことになるわけですよね。私たちに大切なポイントもそこだと思います。イエス様の恵みを受けた者として、やはり、イエス様に少しでも触れられた者として、恵みのうちに信頼して歩み進めていくかどうかですね。実はパンが全然なかったってかまわなかったかもしれないわけですよね。イエス様さえいれば、いくらだっていつだってパンを増やしてくださるわけだから、それでまたパンの心配をしても、まあ、仕方がない。本当はイエス様は違うことを言いたかったからです。イエス様が本当に言いたかったのは、ファリサイ派のパン種と、ヘロデのパン種によく気をつけなさいと、これはもう、まったく新たな教えなんですよね。つまりパンが増えて、どんどんパンが増えて、もう、皆満腹してそれでOKだ、と言ったら、そのパンが増えてる中に悪いものがまざっているから気をつけなさいと、識別の話です、これは。たくさん増えたパンの中で、悪いものもまざってるから、ちゃんと見てですね、恵みがいっぱいあるといってるんじゃなくて、その中に良いものも、悪いものもあるから、気をつけて、識別して、やっぱり良いパンを食べて、悪いパンを捨てるように、注意深く生きていきなさいと言ってるわけなんですけど、そこすらもわかってないわけです。一個のパンのことで、とらわれちゃってるから。先が全然進んでないわけですよね。まだ悟らないのかとか、まだわからないのか、とか、心が頑なになってるのかとか、イエス様がいろいろ言うわけです。
私たちもイエス様の恵みを心に刻んで、生きていかなくちゃならんのでしょうね。たとえば、今日黙想会で良い恵みを得た、と、明日から忘れてしまったら、一個のパンにまた戻ってしまってですね、足りる、足らないの世界に陥ってしまうならば、積み重ねがないわけですよね。やはり、今日イエス様が語ってくださったことを、あるいは、今まで、主が私にどれぐらい憐み深かったかっていうことにより頼んで、今からの生活をしなくちゃならない。イエス様は私たちにもっと新しい恵み、新しい知識、学んでほしいことがあるのに、毎回毎回、振り出しにもどってたらですね、積み重ねにならないわけです。まあ、もちろん、その現実もありますよね。恵みをいただいた時には本当に、神様感謝、って言うんだけど、恵みがないと、ついつい、なんか、あれも足らん、これも足らん、というかんじで、不平不満になってしまうということも、まあ、現実だと思います。だからこそ私たちはイエスのところにたびたび戻らなくちゃならない。日々の祈りにおいて、あるいは、こういう集まりの中で、主が私に対して、どれだけ確かな存在であるのか、導いてくださってる方であるのか、どれぐらい優しい方であるのか、ですね、やはり、忘れっぽかったとしても、思い出して、それを自分の心においてですね、新たなスタートをしていくということですよね。まあ、それで苦しみが減るということではないかもしれないのですが、また、なにか、チャレンジというか、難しいことが起こるでしょうが、でも、このイエス様の恵みに、イエス様の愛により頼んで、そこに基盤を、私たちの基盤をおかなければならない。そうでないと、いつまでたってもぐらぐらよろよろしてしまう。それはイエス様は喜んでおられないと思います。イエス様は、こんなに自分がいるんだから、信頼して、心配せずに歩みなさいと言ってるんだから、それに私たちも信頼して、歩みを確かなものとして歩んで行く、それがやはり私たちに願われていることだと思いますね。まあ、もちろん、少々心がぐらぐらしたり、仕方がないと思いますが、それぐらいは別にどうってことはない。また、イエス様の恵みと、イエス様の確かな愛に戻って、私たちはいつもそばにおられるイエス様に信頼して歩んでいくことだけでいいわけですよね。主が今望んでいること、そして、明日、せよ、と言うことを私たちは喜んで、別にそれはまあ、ちょっとは苦しいかもしれませんけど、でも、できないことをイエス様は頼んでいるわけではないわけで、それを越えていける力を今の状態の中で確かな糧を主はくださるのは間違いないわけですよね。その、主に信頼して歩んでいけるように、あらためて祈りたいと思います。