聖金曜日ヨハネ福音書によるイエスの受難「真理とはなにか」
2009年4月10日聖金曜日ヨハネ福音書によるイエスの受難「真理とはなにか」黙想会、鎌倉
今日は聖金曜日の、イエスの受難の典礼を行っています。かなり長い、ヨハネ福音書のイエスの受難物語の朗読を聞きました。今から黙想会は始まるわけですが、今回の黙想会はやはりこの受難を、今晩と、そして明日、味わいたいというふうに思います。まあ、このヨハネの福音書、長い受難物語で、味わい深いところがたくさんあるんですが、今晩と明日の朝にかけて、少し、祈りを深めてもらったらいいところをお話しします。ヨハネの福音書では、ピラトとイエス様が、長々と対話をするようにできているんですね。他の福音書では、イエス様はなんにもおっしゃらなかった。ピラトの裁判でですね。ヨハネの福音書だけでは長々とピラトとイエスが対話しているんですが、ユダヤ教のラビが言っていましたけど、多分これは通訳付きだったでしょう、と。
イエスはアラマイ語しか話さなかったわけで、多分、ピラトはラテン語しかしゃべらなかった。実際、通訳をつけてしゃべったんでしょうと言われていますが、通訳があったとしても、なかったとしても、このふたりのやり取りというのは私たちに問いかけているものが多いような気がしますね。よくよく読んでると、イエスが裁判にかかっているのか、ピラトが裁判にかかっているのか、だんだんわからなくなってくる。それほどイエス様は威厳を持った態度で、ピラトがどんどん振り回されていくようなお話になるわけですよね。ピラトはこう聞くんです。「真理とはなにか」。まあ、真理と訳すのがいいのか、真実、と訳したほうがいいのか…もっとも大切なもの、ということだと思いますが、「真実はなにか」と、こう、聞くことでこの対話が打ち切られる。結局ピラトにとって、ほんとに大事なものはなになのか、結局はわからないまま、イエス様との話合いの中で、わからないままなんですね。それは私たちの黙想の中で深めてみるひとつのテーマだと思いますね。自分にとって真実とは一体何なのか、自分にとって、もっと別の言葉で言えば、大事なもの、大切なものは一体何なのか、ということですね。やはり、イエスが死に向かう中で、真実ということが証しされてくるわけですが、自分にとって、やはり真実といえるものは一体何なのか、これをよくよく問いかけてみられたらいいのではないかというふうに思います。ま、、いろんな人に出会ったり、いろいろして、その人にとっていったいなにが大事なのかと言うことは…まあ、多くの人は、やっぱり死を前にしてそれが明らかいされるようなものではないかという気がするんですね。あの、「7人の侍」だったか、黒澤明監督で…昔の映画ですけれども、農民の味方をして7人の侍が立ち上がるわけですね。7人の侍が、なぜ戦うか、ひとり一人違うわけですが、まあ、義侠心のようなものからとか、ひとりの人は、財宝が隠してあるとか、お金儲けのためなんだと。農民は実際お金がないわけです。ないから、お金のために…ひとりの人は完全に誤解していて、この、財宝が隠されているから、お金のためだと思って戦うわけですよね。で、7人の中で、彼は途中で死んじゃうんですが、最後まで彼はお金の話をするわけですよ。志村なんとか、っていうリーダーの前で死んでいく時に、自分は死んでいくけど、財宝を手に入れた、というようなことを言って死んでいくわけですよ。他の侍が、お金の夢を見て死ね、みたいなことを言うわけですよね。だから、彼にとって一番大事だったのはお金だ、っていうことが、その映画の中でありありと描かれてるわけですね。昔知り合いだった、元ホームレスの人は、生活保護とってて、亡くなる前の日かなんかになってですね、最後に僕に言ったのは、住之江競艇、っていってですね、ボートがあるんですよ。ギャンブル好きなんですよ。ボートを…ギャンブルするのに自分の人生を賭けて来たっていうわけですよ。だから結婚もしないで日雇い労働してきて、ボートに自分の人生とお金を賭けてきた。生涯残ったのはボートのことだった。競艇のこと。それで自分は生きてきたっていうことを最期に彼は語って亡くなるんですね。彼はそれに人生を賭けてきたから、最後の最後にそれを僕に語って、彼は亡くなっていったわけですね。だから、まあ、なんか、それも非常に問われるような気がします。ある神父さんですが、…わりと、比較的有名な仕事をされた人だったんですが、定年になって、仕事が全部無くなったんですね、無くなったとたんがっくりきて、もう、なにもできない。なにもできなくなって、そのちょっと後に亡くなってしまった。多くの人は、彼にとっての生きがいは、大切なものは仕事だった、ということがあまりに明らかだった…。その、定年前と後の、定年までの生き生きとして仕事をしていた、定年後の、仕事がなくなってがっくりきている、なにもできなくなって、失意のうちに亡くなっていったんですね。彼にとって真実は仕事だった。なにが、私たちにとって…私たちというより、自分にとって、死を前にしてまで自分が大切にしていたものは一体何なのかということですね。ピラトにおいては権力でした。だから、「王なのか?」と聞くわけですよね、イエスに向かって。「王様なのか」って。権力のことしか考えていないから「王であるのか?あなたは」という問いのわけですけど。ピラトは非常に残忍な人で、結局は失脚するんですけど、あまりに残酷だったんで、どんどん人を殺したりしていって平気だったんですよね。ここに出て来る弱気なピラト、本当はこんなに弱気ではない。本当はピラトはもっと残酷で…ヘロデ大王ももっと残酷だったんですけど、イエスの周りの人はものすごく残酷な人が多かったんですけど。まあ、皆さんの場合はどうなのか。なにを真実として生きているのか、ということを改めてひとつ問うてみられたらいいんじゃないかと思います。結局ピラトは恐れてですね、イエスを釈放したいと思うわけですよね。で、それで、紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせて、この姿を皆の前に持っていったら、もう、皆許してくれるだろう、皆の前に連れてって、「見よ、この人を」ラテン語では「エッチェ ホモ」というんですね。「見なさい」と。そのイエスを連れてったユダヤ人の中で、ピラトは負けてしまう、十字架にかけろ、っていう…。イエス様を釈放できないわけですよね。ピラトは証人みたいなかんじになっちゃってですよね、「見よ、この人を」…。途中から証人みたいになってきて「見よ、あなたたちの王だ」と。逆にこの人が王だと。ピラトが告白して、でも、十字架につけろという声に、ピラトは恐れおののいてしまうわけですが。「見よ、この人を」。私たちも祈りの中で
見つめなくちゃならない。十字架につけられたイエスを見つめて、そこになにを見出すかということなんですよね。何が見えるのか。ユダヤ人たちはそこに、なにか自分たちの怒りと罪の矛先みたいなものを見るだけだったんで、「十字架につけろ」と叫ぶわけですが、皆さんはそこに、そのイエス様の姿にどういう真実をみいだしていくのか。イエスは言うんです。真実を証しするために来た、真実に属する人は皆私の声を聞く。声だけじゃなくてイエスの姿を見る、ということもあわさっているでしょうが、何が自分にとって真実であって、イエスが何の真実を証ししたのか。最終的にイエスが証しした真実は、それはもう、ヨハネの福音書の始めから最後まで書かれてるように「神は愛である」ということですね。イエスが証しした真実は。実際のところですね。それをイエスは十字架上で亡くなることを通して示した、ということですが、イエスの姿に、どういう真実をみいだすのか。イエスの十字架、復活、あるいはその言葉とか、なにかに、どういう真実を見出していくのかということですね。イエスをよく私たちは見つめなければならないということですね。そして、最終的にピラトはイエスを十字架上にかけるんです。罪状書きには、ナザレのイエス、ユダヤ人の王…王として、ナザレ人でありながら王として宣言されて十字架上で亡くなるんですね。しかも、念が入っていて、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語で書いてあったのです。その時の世界の共通語全部で書いてあったという…。人類に向かってそれが宣言されていた。ユダヤ人は、やめてくれ、と言うんですね、それは。「ユダヤ人の王」と書かず、「この男はユダヤ人の王と自称した」と書いてくれと。ピラトは言うんです、「私が書いたものは、私が書いたままにしておけ」と。王として死んでいくわけですよね。最終的にピラトはそれを推し進めてる側に回っているように見えるんです。なんというか、なにか、イエスに引きずられてしまっているんです、最終的には。イエスを王として宣言する側になっているわけです。その、イエス様を、十字架上のイエス様を私たちを王として、私たちのメシアとして、救い主として、本当にこの世をすべたもうているものとしてイエスを礼拝することができるかどうか。そこに、私たちの生きていく真実をみいだしていけるかどうか。今晩から明日にかけてゆっくりそれを祈りの中で振り返ってもらったらいいわけですね。まずは、正直に、自分の真実は何なのか、別に発表することではないんで、実際なにを大切にしているのか、正直に。世間体とか見てくれとか保身だとかですね、自分の家族だけのことだとか、いろいろ人によって違うわけですが、まあ、その、本音があるわけですよね。それはそれで認めた上で、イエス様の示す真実は何なのかを祈りの中でよく、十字架上のイエス様を見つめながら、そしてそのイエス様を本当に自分の救い主、王として受け入れたいかどうか。そのようなことをちょっと、黙想の始めに、本質的な問題ですが、深められたらいいかと思います。