ヨハネ福音書12章44-50節「暗闇の中で光を信じる」
2009年5月6日 ヨハネ福音書12章44-50節「暗闇の中で光を信じる」 癒しのミサ 東京にて
12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
今日の福音書は、ヨハネの福音書12章の44節から読まれました。イエス自身を信じるか、あるいはイエスの言葉を信じるか、私たちは絶えず信じる者になれるかどうか、ヨハネの福音書で問われている、というふうにいえるであろうと思われます。イエス様を信じて、日々私たちが歩んでいくことができるかどうか、特に病や苦しみ、さまざまな困難の中において、私たちが主を信じていけるかどうか、それが私たち一人ひとりに絶えず問われていることである、というふうに思われます。
もちろん、楽な時、というかですね、悩みのない時に主を信じるのはそれほど難しいことではないかもしれない。でも、さまざまな病や苦しみや、囚われや、闇、ですね、そういうものに巻き込まれていく時に、私たちは信じることが非常に難しい、あるいはイエスに対して恨みがましいことを言いたくなるでしょうし、信じていながら自分の心が晴れなかったり、あるいは苦しみが続いていたりするならば、それでも私たちが信じていけるかどうかということは、なかなか問われることですよね。日々、信じるということと、不信仰というか、信じられない気持ちの、いわば葛藤なようなものが私たちの中にあるかもしれない。
知り合いで一人、残念ながら、あまりに家族の中で病人が多かったんで、けっきょくクリスチャンやめてしまってですね、家族ごと。ご主人が手術を何回もして、お孫さんも、生まれたての赤ちゃんなんだけど、不治の病で・・・。もう、病が次から次へとその家族に襲い掛かるんで、けっきょく彼女はもう嫌になっちゃって・・・キリスト教では自分は救われないと。それで、家族ごとカトリックをやめてしまいました。・・・心が痛みます。私もその家族のために一生懸命お祈りしてたんですが、それでも、そういうこともないとも限らない。私たちも、信じたい気持ちはあるけれども、いろんな意味で信じられない気持ちもまざっている。その中で私たちは信仰を歩んでいかなくちゃならないということはあるだろうと思います。
じゃあ、私たちの頼りになるものはいったいなんなのか、ということですね。それは、今日の福音で言うならば、イエス・キリストである。簡単に言えばですね。こう書いてあるわけです。「だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」と。私を信じる者が誰も暗闇の中にとどまらないように、と。イエス様が光であるというわけですね。その、イエス様の光を私たちがいつも見つめて、その光に向かってというか、その、恵みを受けて、そこに私たちの力を見出していけるかどうか、ということかもしれない。
東京教区の森司教さんが、書いていたことだったんですが、彼が一番強く神を感じた時がある、同いう時だったかというんですね、彼はまあ、こう言うんですけど、若いときに登山が趣味で・・・今の若い人はあんまり登山はしませんが・・・一昔前の若者はよく登山をしていたんですが、ある時、ちょっと慢心が出て、冬山に登って・・・まあ、なんとかなるだろうと、冬の山に登ったんです。そうしたら、やはり警戒する心が足らなかったのか、嵐に巻き込まれてですね、吹雪かなにかで、まったくどっちに歩いていいのかわからない状況になって、もう遭難直前くらいになって、命の危機みたいなものを感じた、というんですね。で、何人かで、岩場のようなところでテントを張って一晩を過ごすことにしたというんです。そこで寝ようかという時に、なんと、そのちょっと先に光が見えたんですね、吹雪は大分やみつつあったんですが・・・暗闇の中で。それが明らかに山小屋の灯りだということがわかって、彼は、その光を見たときに自分の命が助かったということを感じて、その時に気持ちがものすごくほっとして、神様が自分を助けてくれたということを強くその時に思った、というんですね。それが神様に出会った最初の体験だったと彼は言っているんですが・・・で、結局、夜はもう動けないから、そこで夜を明かして、それで翌朝、雪がもうやんでる中を山小屋に向かって歩いていくことができた。それが、見たらすぐそばだったということですが、吹雪の中じゃそれがまったく見えなかった。ま、、雪はまだ降っていましたけど、とにかく翌朝晴れたんで、山小屋に歩いて行って自分たちは助かったということを言っていましたが、その話を聞いて、私たちの信仰というのは結局そういうものだろうという気がするんですね。というのは、光が見えてる、山小屋の光が。でも、まだ到着してないんですよね。自分たちはまだ、吹雪の中にいるけど、光を見たとたんですね、助かったと。自分たちは。光だけを見たときに、もう、心に安堵感と、それまで、もう死ぬんじゃないかとか、遭難するんじゃないかという苦しみの中で。でも、あの光を見たとたんに心の中に安らぎと平安があった。でも、まだ、着いてないんですよね。完全に着けてないけど、光を見出しただけで、自分たちの命が助かったと思ったというわけですよね。私たちの信仰とはそういうものだろうと思うんです。
私たちは、ある意味まだ、完全に救われていない。暗闇の中で。吹雪の時もあるかもしれない。闇の中にいるかもしれない。今の身体と心は。でも、イエス様の光を見たら、確実に自分は助かったと思える、というところに私たちの信仰がある、ということですね。全部が救われるのは、世の終わりの神の国・・・そこですべての人の苦しみと悩み・・・すべての目の涙がぬぐわれる。でも、私たちはすべてはぬぐわれてないわけですよね。でも、光を見失って、吹雪の中で巻き込まれてしまったら、私たちは結局、絶望と苦しみと闇の中に囚われてしまう。けれども私たちにあるのは、やっぱりイエス様の救いがある、光が私たちの人生そのものに灯っていてですね、それがあるからこそ、私たちは今でもイエスを信じて歩んでいくことができるということですね。その光を私たちが見失わないで・・・小さな光かもしれない、皆さんにとって・・・場合によっては大きな光だと感じる時もあるでしょうし、ある時は非常じに小さな消えそうなものに感じる時があるかもしれない。でも、その光があるからこそ私たちは歩んでいける。しかもどのような方向にどのような気持ちで・・・。今の苦しみがすべて・・・ま、消える苦しみもあるでしょうし、消えない苦しみもあるでしょうが、でも、苦しみのあるなしに関係なしに私たちの人生にはイエスという光が与えられて、その光を見つめることによって私たちは歩んでいくことができる。前を向いてですね。絶望する必要もない。がっかりする必要もないわけですよね。光が灯っている以上。
クリスチャンであることがどれだけ恵みであるかと思うことは多いですね。私は二十歳で洗礼を受けたんですが、二十歳の前、神様知らない時代、どうやって苦しみに耐えていたのか思い出せないです。イエス様なしに、自分はどうやって苦しみに耐えていたのか、イエス様なしにどうやって生きていくのか、もう、想像もつかないくらいですね、イエス様というのははっきり光として・・・・小さい、大きい、強いか弱いかは別として、その光があるからこそ、自分自身も日々生きていくことができる・・・どんな苦しみがあろうと。この、イエス様の恵みに私たちも信頼していきたいと思います。必ず、不信仰との戦い、自分の絶望感との戦い、がなくなるということはない。けれども、それを越えていける恵みと力が、私たちにも絶えず与えられてる。それこそ、クリスチャンの本当の宝だと思いますね。一千万円あるとか、ないとか、生命保険でいくらもらえるとか、一昔前のヘッジファンドを何十億円貯めていたとしても、そういうものは、今の私たちの苦しみを根本的に取り除く希望の光にはならないと思いますね。イエス様以外に、恵みというもの、支えというものはないのではないかと思います。私たちが本当の光であるイエス様に信頼して歩めるように、このミサにおいてですね、自分の信仰を新たにしてイエス様とともに歩んでいく、そのような気持ちを新たにしてまた、再スタートを切れるようこのミサでお祈りしたいと思います。