テキスト版 ヨハネ福音書12章24-26節「希望の種」 ペトロ岐部と187殉教者のミサ
2009年7月5日ヨハネ福音書12章24-26節「希望の種」 ペトロ岐部と187殉教者のミサ(鎌倉黙想の家1周年ミサ)
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
2008年という年の3つの意味
この黙想の家が新しい体制になってから、約1年が過ぎようとしています。2008年の4月から、ここを受け持ったわけですが、この2008年というのは、いろんな意味で、私にとって、あるいは私たちにとって、意義深い年だったというふうに感じています。三つの、意味がですね、2008年にはあったというふうに思っているんです。
鎌倉の黙想の家の再出発
ひとつは今申しましたように、ここを、新しい体制で、最出発した、ということです。具体的には、イエズス会と信徒の団体であるCLCと、協力して活動を始めた、ということ。ここに来られてる方々は、いろんなかたちで協力というか、共に働くというかたちになったわけで、多くの方々とともに共に働きながら歩む、という。私自身責任者で、皆さんに心から感謝申し上げたい気持ちでいっぱいです。それとともに、私自身、このような機会に恵まれたことが、私にとっても大きな感謝だというふうに思っています。
たまたまCLCの世話係だったので、そのために私もここに派遣されたわけで、巡り合わせといえば、巡り合わせなんですが、巡り合わせに巡り合えた、ということが、私にとっても幸せというか、新たなかたちを、皆で協力しながら、すべてがうまくいってるわけじゃなくていろいろ話し合いとか、なんのかんの言いながらやってるところもあるんですが、それらすべてが共にこうやってやれてるということは、日々、大きな感謝の気持ちでいっぱいだということです。
やはり、日本の教会全体を見ても明らかですが、信徒と司祭修道者が、今までとは違うかたちで働いていかねばならない。そのような現実に、消去法にしても、学校や、修道会の経営する病院とか福祉施設ですね、どこでもそのようなものが必要とされてる時代に、このような仕事に、新しいかたちの仕事に携われてることが大きな喜びです。イエズス会の管区長と話しても、管区長自身喜んでおられて、ほんとによかったなあというふうに思っています。
新しいかたちを、一年たって、思いのほかうまくできたという気持ちで…足りないところも、まだまだいっぱいありますけど…これを、まあ、続けて、神の恵みのうちに、皆さんの寛大な…様々な協力ですね…もちろん、まったく違う…その中で、共に歩めて、2008年が、その年になったということですね、意義深いことだと思っているんです。
ペトロ岐部と187殉教者の列福
それともうひとつは、それも、この家に関係することですが、去年の秋に、今ミサでお祝いしている、ペトロ岐部と187殉教者が、日本で列福されたということです。この中でも列福式に参加された方もおられると思いますが、これもほんとに不思議な巡り合わせだと思うんですが、ここが、名前が、たまたま日本殉教者修道院という名前になっていて、その年に、そういう出来事があってですね、多分、日本で列福式があるのは100年に一回くらいだと思う…あるいは200年に一回かもしれない。それにもまた、巡り合えた、ということが、非常に大きな喜びです。神に感謝したいことのひとつです。
それは、この家にとっても喜びだし、日本の教会全体にとっても喜びなのですが、その、殉教者のことを思って、もちろん、皆さん方もいろいろ本とか読んだりなさったと思いますが、ここにも、ペトロ岐部の写真を飾ったりしてですね…あの、第一印象としては、とてもじゃないけど、真似できない、というか、あまりに遠くてすごい人だという気持ちで、圧倒されるような気持ちもしていて、とてもじゃないけど殉教できない…でも、だんだん、殉教者のことを勉強しながら、列福式に参加したり、ここで、列福者のとりなしをお祈りしながら、だんだん私の気持ちも変化してきて、なんて言うんですか、できない気持ちよりも、先輩たちができた、ということが、殉教だけでなく、殉教の前に、共同体として信仰を生き生きとして保っていたという、私たちの大先輩がすでにそれをやってたということが、だんだんお恵みに感じるようになってきて、大先輩ができたんだから、やっぱり私たちもできるんじゃないかという、そういう、希望、が出てきました。
確かに、日本の教会、小教区、特に田舎の方に行けば行くほど、高齢化して人がいなかったり、神父さんいなかったり、修道会そのものが高齢化していったり、もちろんがっかりする、あんまり喜べない気持ちがする危機感も、もちろんあるのですが、でも、僕は思うんですが、日本人っていうのはやり、底力があるんじゃないか。先輩たちが、すでに証ししてくださっているのだから、だから私たちができる、できないっていうより、やっぱり彼らに助けられて、今の時代を、本当に信仰を助けあいながら、やっぱり信者同士、あるいは信者と司祭が助け合いながら、協力して歩んでいける姿がすでにある、と。その恵みに乗っかって、私たちも、なにか未来に向かってできるんじゃないかと。そういうなにか、むしろ、普段、希望というか、なにか、力強さを感じています。
多分、私自身がここで協力しながらやっているからだと思いますが、でも、この希望の種というか、私たちに大事なものがすでに与えられてる力があるのです。
彼らはものすごく苦労したんでしょうし、私たちの時代も簡単であるとはいえないと思いますが、それを、私たちが彼らの恵みに乗っかって生きていける。そのような気持ちが非常にしています。特に、こうやってわざわざペトロ岐部の写真を飾って、聖堂とかにいろいろ名前つけたりして、なるべく殉教者の人と一緒にいるように、一緒に働いているような雰囲気を醸し出して、すごく励まされる、力づけられる気持ちがするんですよね。わたしたちにも未来があるっていう気がします。ここでがっかりする必要性はまったくないという気持ちが湧いてくる。
世界中の混乱の始まり
三番目のことは、これは、やはり2008年9月に起きたことですが、リーマンブラザーズの破たんから、世界の金融資本主義が一挙に崩壊して、世界中ですね、どこだけでなく…世界中が巻き込まれて、経済混乱の中に必然的に巻き込まれたわけです。で、これからどうなるのかわからないですが、私の小さな予想ではもっと悪くなる…もっと、第二、第三の危機が訪れてくる。100年に一度と言われてるくらいの…これも、100年に一度と言われるくらい大きな事が、私たちに来てるわけです。社会のことを考える時に、その、派遣切りの問題から、ほんとに苦しんでる人、格差社会の矛盾が一挙に目の前に現れた。で、いろんなかたちで世界中の人々が苦しむ中で、いったいどのように歩んだらいいのか。
それも、同じ年に巡り合い…こう、タイミングよく、殉教者のこれと、2か月くらいの違いで来たっていうことも、やっぱりなにか、こう、ひとつの神の呼びかけというか、チャレンジというか、どう言ったらいいか、わからないんですが、そういうものをやっぱり感じます。で、やはり私たちが、この黙想の家の奉仕は、ひとつの小さな、全体から見たら小さな奉仕かもしれないんですが、私たちがどれだけ、この社会の変動と、混乱と、苦しみの、それらの声を聞きながら、それと気持ちをひとつに合わせながらですね、歩んで行くように、やっぱり、なにか、大きく、呼びかけられてるような気がします。もちろん、経済学者でもなんでもないから、こうすればいいとか、どうすればいいとかわからないし、黙想の家の活動がすぐ結びつくか、結びつかないか、そういうことはまた、あれですが、でも、世界中の人がこの、混乱の中の渦に巻き込まれてるわけですね。
深い祈りと、神との深い一致がもっと必要とされる時代へ
その中で私たちがどのように歩んでいけばいいのか、人類の、次の選択がかかってるわけです。それがほんとに、福音にかなった選択ができるのか、ますます、混乱と破壊の方に向かっていくのか、それは、私たちひとりひとりに問いかけてる大きな問いが、2008年に私たち人類に与えられた。このチャレンジをどう…、私が小さな頭でぐるぐる考えていても解決があるわけではないですが、やはり、たとえばこの黙想の家が、直接、その派遣切りの人たちを助けてるわけじゃないですが、やはり、この混乱の中で、自分たちの歩みが、ほんとに神とともに次の一歩をどう進めていくか、そのようなことを、やっぱりしっかり見極めていく。あるいは、私たちクリスチャンひとりひとりが、この混乱の中で、どのような歩みを、どのような経済的な活動、どのような労働、どのようなライフスタイルを選んでいくのか、やっぱり問われている。これからもっと問われるようになるであろうと思われますが、各システムが今から壊れていく時、その中で神とともにあって、私たちが歩んでいくこつは、やはり、深い祈りと、神との深い一致がもっと必要とされる時代に入った。それは、ひとりひとりに問われてることであるのは間違いないですね。
この、2008年という年が、そのような三つの出来事があって、そして、この2009年、来年、再来年と、そこの流れの中で生きていく、働いていく、祈っていく、そのようなものが与えられているような気がします。これからも皆さんひとりひとりが、なんらかのかたちで、ここに関心を持っていただいてですね、具体的にボランティアをしていただいている方々、まあ、中核になっている方々、様々いらっしゃるわけですが、ほんとに皆さまと協力しながら、ただ単に、この黙想の家がうまくいくとか、うまくいかないとか、もちろんそれも大事ですが、プラス、ほんとにこの日本の社会に対して、世界に対して、私たちが神の国を広めていくというなにか大きな目標に向かって、もちろん、迷いながら、なにか、答えがすぐこれと与えられるわけじゃないですが、歩んでいけるように…日本の、小さなクリスチャンの人数ですが、この、一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。私たちも、確かに、一粒の小さな者にすぎない。私たちが、なんらかのかたちで自分をささげていくならば、多くの実を結ぶ、主がそれを約束してくださっている。
400年前に、播かれた種が私たちの中で実を結んで、私たちもさらに実りに向かって歩めるようにこのミサで、感謝と願いをささげていきたいと思います。