聞き書き 四旬節の教会黙想会  

hanafusafukuin

2018年3月21日に行われた聖イグナチオ教会教会の四旬節教会黙想会は、イエズス会のホアン・アイダル師によるフランシスコ教皇に倣う「祈りとミッション」の講話でした。

アイダル神父様は、アルゼンチン生まれ。ホルヘ・ベルゴリオ神父(フランシスコ教皇)が神学院の院長だった時に神学生で、フランシスコ教皇に霊的指導を受けました。

以下の記録は、黙想会に参加して、会場での録音を元に管理人が文字起こしと意味を損なわない範囲での編集を行った文章です。
文中の聞き間違い等、全ての責任は管理人にあります。

 

黙想会の主役は神様

私の経験から話しますが、今まで経験した恵みの濃い黙想会…、毎年、黙想会の恵みは一つ二つはあるのですが、イエズス会に入ってから経験した恵みの濃い黙想会が二つあるのですが、二つとも、その時の神父さんの話はよくなくて。そのうちの一つは私の体の調子も良くなくて。いろいろ心配していたことがあって、夜も眠れないし。でも、神様は(ご自分が)語りたい時に語ります。黙想会の時に心に感じた光、恵み、言葉、その言葉に一つ二つ、今日感じられたら、黙想会の大きな恵みになります。神様は、たくさんは語りません。一つ、二つ、三つ、あれば十分。それを一番大切にしたいと思います。主人公は神様です。

黙想会のスケジュールは午前中は祈りについて、午後はミッションについて話します。

教皇フランシスコの話についても、話したいです。

教皇フランシスコは「福音を身につけている」

私が思う、教皇フランシスコの魅力的なところは、「福音を身につけている」ということです。
何か、質問されると、すぐに正直に話します。時間をかけて、考えて、政治的に話すのではなく、正直に話します。行動も、自由です。自分の心から何が出てくるか、恐れていないことです。(教皇フランシスコの魅力は)素晴らしいことを話すかどうか、ではなく、「福音を生きている」ということです。

そこで、教皇フランシスコがどう祈っているかを見て、それに倣ったらそのように(福音を身につけている)、そのような生き方に、少しでも近づけるかもしれません。

今日は、教皇フランシスコが私たちの神学院の院長だった時に話したことを記録したノートを使います。私は(ノート類を)すぐに捨ててしまう方なので、あまり残っていないのですが、教皇フランシスコのものは今まで残っています。自分がとった祈りについてのノートを見ると、教皇フランシスコは、言っていることが、全く、今も昔も変わっていないことに気づきます。ですから、昔のノートを今使っても問題ないのです。

今日は、それで、祈りについて、三つのことを話したいと思っています。

教皇フランシスコに倣う「祈り」

賛美の祈り

その一つは、賛美の祈りです。
教皇フランシスコの霊性は、聖イグナチオの霊操にルーツがあります。
聖イグナチオが霊操の本の最初に書いたのは、人間が造られた目的についてです。そこでは、「人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるため」と言っていますけれども、一番最初が「賛美するため」であることです。私たちは、祈るのも、働くのも、生きるのも、神様を賛美するためだということです。
教皇フランシスコは三つの本を書いていますが、三つのうち二つに「喜び」という言葉が入っています。実際、本人も、「喜び」を大切にする人ですので、これがヒントになると思います。
例えば、(昨年)12月に、上智の学生と教皇が、テレビ対話をしたのです。(「教皇と話そう」と言う企画)
ちょうどその直前に教皇はミャンマーを訪ねていて、その旅行は大変なものだったことがわかっていたので、一番最初の対話は、「お疲れではありませんか?」というものでした。しかし、フランシスコ教皇は、「トシですから、体は少し疲れているけれど、旅行は休みになりましたし、いただいた恵みも多い」とおっしゃいました。
彼にとって、その旅行は、神様から任された任務というよりは、恵み、感謝だったわけです。

賛美というのは、「神様は良い方です、素晴らしい方です」と言うことですが、喜びがなかったら、賛美にはなりません。「神様は本当にいい人です」というメッセージは、喜びがなければ伝わりません。
そういうふうに生きるためには、祈りによる毎日の練習が必要です。

人間はなぜかわからないですけれど、暗くなる傾向がある。罪の結果でしょうか。私もそうですけど、悪いことばかり覚えています。良いことはすぐ忘れてしまって、良いニュースは覚えていない。だから、良いことを覚えていて感謝して賛美すること、そのように生きることは、人間の性質として自然なことではないのです。

だから祈りで練習する必要があります。

聖書では、復活した主が、弟子達に現れたところ、「弟子達は、あまりの喜びに信じることができなかった」と書いてあります。私は、ここが好きです。普通ではありえないでしょう、という状態が目の前に現れて、信じることができなかった、ということです。
私たちはいつも暗いから、あまりの喜びは信じられないのではないでしょうか。目の前に復活した主が現れたというのに。
だから、賛美の祈り、感謝の祈りは、すごく大切だと思います。そして、多分、教皇フランシスコの活動の秘密はそこにあります。
これはイグナチオの霊性もそうですけれど、聖書にもあります。
イエスが祈る時はいつも「父よ、私はあなたを賛美します」と言っています。あるいは、イエスが奇跡を起こす時必ず、治してもらった人が「賛美しながら帰って行った」とあります。

私の専門はレヴィナスというユダヤ人の哲学者です。レヴィナスを研究するために、ユダヤ教を勉強しなければならなかったのですが、ヘブライ語には一週間の曜日には名前がないのです。月曜日は1日目、火曜日は2日目、という呼び方です。唯一名前があるのはサバット、土曜日です。ユダヤ人たちの解釈では(サバット以外に名前がないのは)人間は何のために生きているかを思い出すため、ということです。
サバットは神様の賛美の日です。そのほかの日はその準備の日です。
人間は神様を賛美するために生きているのです。
私たちは今そのように生きているか。

私たちは四旬節の間に回心と言いますが、それは、賛美しながら生きる、賛美しながら働く…というようなことではないのかと思います。
これはさっきも言ったように毎日の祈りにもあると思います。
賛美の祈りをどのようにすれば良いか。プリントには、3つの賛美の祈りが書いてありますけれども(実際は2つ。初めの1つは記入し忘れた)、
一つはユダヤ教の祈り、これは教皇が貸してくれた本の中に祈りの説明があったので、教皇も使っていたかもしれません。
ヘブライ語で、「ダイエーノ」という言葉があります。これは「十分」という意味です。「ダイエーノの祈り」は特に解放、エジプトから解放された時の祭り、過越の祭りの時に特別に祈るのです。神様に感謝する祈り。
自分たちの人生の中には、多くの過越がある、それを感謝する祈りのことを言うんですけれども、「神様、あなたは、私たちに、〇〇(聞き取れず)をくださいました。もし、それだけでも、私たちはそれで十分です。それなのに、神様あなたは私たちに聖書をくださいました。もし、それだけでも、私は十分です」と言う祈りです。それだけあれば、一生分、生きていくのに私たちは十分なのです。
私は「それだけでなく、神様あなたは私にイエスをくださいました。そして、たくさんの友達をくださいました。もしそれだけでも、私には十分です」と祈ります。一つ一つ賛美せずにはいられません。思い出して一つ一つ感謝する祈りです。

プリントにこれは書いたのですけれども、詩篇150。まず、詩編についてですが、みなさんも知っているように、聖書中には詩編は150あります。詩篇は五つに分けられていて、それぞれテーマで分けられています。ある時は、敵を滅ぼしてくださいというような神への願い、私の罪をゆるしてくださいというような祈り。詩編の面白いところは各部の一番最後に必ず賛美の詩編があります。これは、人間はどのような状況でも神を賛美できると言うことです。ここに載せた詩編150、その下にみなさんへの質問を書きました。

1.誰が賛美される?
この詩編では神様は二つの名前で賛美されています。日本語でもそれは言えるのですけれども、日本語で「神」とされれるのはヘブライ語の”Hal-El”です。「神」は、宇宙万物を支配する創造主で、私たちにはよくわからない、コントロールできない「神」です。一方、”Hal-el-lu-Ja”と書かれている場合は「主」と訳します。「イスラエルの神ヤーウェ」といったりしますけれども、私たちの神、よく知っているわかる神、親しい神です。神を賛美する、と言う場合、この二つがあります。

2.どういう楽器で賛美する?
「角笛」「竪琴」何でも、どんな楽器でも賛美できます。人はどんな楽器でも賛美できるということです。
ユダヤ教のラビに聞いたことですけれども、例として「病気」の時、「病気」を賛美できるか、ということがあります。神様は病気は与えません。だから、病気を賛美するのではなくて、「病気の中」で神を賛美する、ということです。
どんな楽器でも賛美できるというのは、人はどんな状況でも賛美に変えることができる、という意味です。与えられた状況を賛美に変えることができる、私はそう思います。
この詩編は、自分の状況を、どう賛美に変えるか、そういう祈りになります。

賛美の祈りについて、もう一つ提案したいのは、”Anselm Grüm”。
「変化と変容」と訳しましたが、これは、今の状況を違うものに取り替えることなく、賛美に変えていくこと、あれとこれを取り替えるのではなく、変えていくことです。
例えば、モーセが燃える柴を見つけた時、柴という植物は聖書の中では価値のないもののシンボルですが、これが、神様の臨在のしるしだった。
柴は綺麗なものではないけれども、信仰の目で見れば賛美することができる。岩は逆に聖書の中では良いものですが、それも賛美に変える必要があります。モーセが岩を割って民に水を与えます。岩を割って水が出てこなければただの岩のままです。良いものが神様の賛美になるには、自分のため(良いものだから、と)の賛美ではなく、神様を賛美しているか(割れて、人のためになる。役に立つ)か、が必要です。
つまり、変化でなく、変容が必要です。(これが回心)
自分の持っているもので神をどう賛美するかです。

他者のための祈り

教皇は、アルゼンチンで神学院の院長だった時、よく他人のために祈りましょうと言いました。
彼は私たちにこう言いました。司祭は自分の問題ばかり大きくて、人に仕える余裕がない、と。
(本当は)クリスチャンになるのは、自分のためではなくて、人に仕えるためです。その心を育てるために、他者のための祈りがあります。この小さな祈りは、大変大きなミッションとなります。
教皇は非常に一人一人のことを考える人です。教皇はよく言いました。「今あなたの一番大きい心配は自分の心配でしょうか、それとも人の心配でしょうか。私たちがクリスチャンである限り、自分のことより、人の心配をしなければならない。その心を育てるためには人のために祈ること。そうすれば、自然に、人の心配をするようになります。」
聖書に出てくる人たちは、みんな人のために祈っています。旧約聖書では、モーセもエレミヤも、皆イスラエルのために祈っています。
新約聖書で私の好きなところはイエス様の最後の晩餐の場面の祈りです。イエスはもうすぐ殺されるし、それをわかっているし、そういう状況でも自分のためでなく、弟子たちのために祈っています。
そうできたのは、毎日の祈りの結果です。イエス様はいつも人のために祈っていました。

聖書を読んでもわかると思いますが、他者のための祈りはほとんどオールマイティ、必ず聞き届けられます。
よく、「神様は私の祈りを聞き届けてくださいません」とか、「信仰を失いそうです」と悩みを聞かされますけれども、そう言う時、私は「人のために祈ったらいかがでしょうか」と言います。人のために祈る祈りを神様が聞き届けられないことはほとんどありません。神様にプレッシャーを与えたくないので、断言はしませんが。

聖書の中で、イエス様のところに行って、人のために祈った人の願いは必ず聞き届けられています。
百人隊長とか、2人の女性、一人はマリア様、カナの婚礼で人のために水をワインに変えました。まだその時ではなかったけど。もう一人はカナンの女。外国人なのに祈りが叶えられました。だから、この祈りはものすごく力がある。
祈りだけでなく、人のために何かしようとした時、必ず神様は動きます。自分のためだとうまくいかないことが多いです。
祈りもそうですけれど、人を助けようとする時神様は必ず動いてくれる。私もアルゼンチンにいた時なんども体験したことですけれども、私たちの神学院には人がとても多くて、それで、お金がないので、貧しい生活でした。教皇が院長だった時、色々なことを始めて、例えば、貧しい子供達の食堂や近くで遊んでいる学校に行けない子供達の学校を始めて、その子供達をキャンプに連れて行くのです。アルゼンチンのキャンプは3週間くらい行くのですけど、持って行く食べ物は3日か4日間分。子供は100人以上。神学生は必ず順番に食べ物をもらいに行く係になるんですけれど、必ずなんとかなる。ある時は牛一頭もらいました。
これが、神様のやり方。聖書の中には奇跡がよくあるが、今は奇跡はどこにあるのか?と言われることがあります。こういう現代の奇跡を見ることは、神父のためにとてもいいことだと思います。

識別のための祈り

もう一つ紹介したいのは識別です。識別は聖イグナチオのとても大切な祈りです。
教皇ととても親しい新聞記者が、たまたま日本に来た時「教皇は日本に来るのでしょうか?」と私たちが聞いたら、
「教皇が何をするか、わかりません。教皇の動きが決まるのは、だいたい朝の5時です。」と言いました。
朝の5時というのは、彼はとても睡眠時間が短いのですが、朝5時が祈りの時間です。この時識別して祈る。それで、「決まるのが朝の5時」というわけです。

教皇は識別を非常に大事にしている。この前も神学生に話したんですけれども、識別はイグナチオだけではなくて、聖書にも出てくる。例えば、初代教会、ペテロもパウロも「聖霊と私たちが決めました」と言います。識別とは、聖霊に耳を傾けることです。私たちの中にも同じ聖霊がいます。それに耳を傾けることが識別です。

識別を生きるためには、まず、期待と希望の違いを知ることです。
神様は何を望んでおられるか。気をつけなければならないのは「期待」を横に置いておくこと。「希望」は神様の与えたいもの。あまりにも自分の期待ばかり祈っていると、神様の与えたいものが入って来ません。

それから、教皇も勧めていることですけれど、識別をする時は、書くこと。私はどうやったらいいか、こうやったらいいか、頭の中がぐちゃぐちゃになっていますから、書くこと。それをやるためのいろんな理由を書きます。そのあとは、それで祈る。神様は何を望んでいるか、それを聞くことがとても大切です。

識別を考えるときに、聖書のこの箇所があります。ルカ15章8-10節、この箇所を使って祈ったらどうかと思います。これは銀貨をなくした女の人の話。教皇が言うのは、探しているのは神様です。神様があなた方を探している。色々なヒントを出して、考えてくださいと言っています。神様は人を探しています。

ユダヤ教にふさわしいストーリーがあります。二人の子供がかくれんぼをして遊んでいました。そのそばに一人の老人がいた。老人が気づいたら、一人の子供が泣いていた。老人が、「お前、どうしたんだ、なぜ泣いているんだ」と聞いたら、「かくれんぼをして自分が隠れていたけど、友達が自分を見つけてくれなかった。そして、出て来たら、初めから友達は自分を探していなかったことに気がついた」その話を聞いて、今度は老人が泣きました。子供が、「おじいさん、なぜ泣いているの?」と聞いたら、老人はこう言いました。「私はお前の話を聞いて、神様のことを思い出しました。神様が隠れているのに、私は初めから神様を探していませんでした」
このようなことを思い出しながらしばらく黙想しましょう。

教皇フランシスコに倣う「ミッション」

今日のテーマは「祈りとミッション」で、午前中は教皇フランシスコが祈りについてどう考えているか、教皇フランシスコの祈り方を話しました。午後はミッションについて話したいと思います。
言うまでもなく私たちは、人を助けるためにクリスチャンになっていますので、教皇フランシスコも、お渡ししたプリントの裏にあるように、時々祈りにも気をつけないといけない、うっかりして、それが行動まで行かない祈り方もあります。
行動は私たちのあり方の根本的なものの一つですので、ミッションについて話しましょう。

慈しみーミッション

ミッションとか、人を助ける、と言う言葉ですが、もう一つの言葉で言えば、「慈しみ」です。
教皇フランシスコの言葉は「喜び」と「慈しみ」です。ですから、「慈しみ」について、時間をとって祈ったらいいと思います。

聖書を見るだけでもわかるんですけれども、イエスは人を助けるために色々な方法を行いましたが、一番うまくいったのが、「ゆるし」だと思います。他の場合、彼が人を癒しても、そのまま行ってしまって感謝もしない場合もありました。
ただ、「ゆるし」はとてもうまくいった。だいたい、罪をゆるしたら、その人はイエスに従うとか、変わるとかしました。
ですから、教皇がミッションとか、人を助ける時に、まず「慈しみ」と言う言葉を出すのは、聖書からの知恵です。

慈しみは大切だが、とても難しい

ただし、この「慈しみ」と言う言葉はちょっと危ない言葉でもあります。
危ないと言うのは、「慈しみ」は言いやすいけれど、実行は難しい。私たちは、言うだけで、わかっているようなつもりで、本当にこれについてゆっくり祈る必要があるし、これを願う必要があります。
イエスが慈しみ、慈しみ、と言うのは大切なことだから。そして、難しいから。
簡単なことだったら、皆できるでしょう。慈しみが大切でなおかつ難しいことを知っていて、これを祈りで願うことが私たちクリスチャンの第一のミッションかもしれません。

「慈しみ」と言う言葉は言いやすいのですけれども、実行しにくい。
例えば、聖書の中では「神様は慈しみ深い」とか、たくさん慈しみという言葉が出てきますが、イエスが、実際人々に慈しみを表した時には大騒ぎになります。

ユダヤ人たちは、心のなかでは全然わかっていなかった。時々私たちも同じだと思います。
教皇フランシスコが「慈しみ」と言うことを言うと人々はみな反発します。

例えば、教皇は、再婚した人について、難民に慈しみを表しましょうと言います。これはキリスト教の中心の考えだということを私たちはわかっています。しかし、反発が多いのです。
この言葉が言いやすいけれど、実行しにくい、とさっき言いましたが、もっと正確に言えば、言いやすいけれど、信じにくい。

慈しみによって世界が変わる

「慈しみ」を信じる。私たちは、本当にそれを信じているかどうか。言葉では言うけれど、心の中で信じていない人が、クリスチャンを含めてとても多いと思います。
何を信じていないか、と言うと、「慈しみによって世界が変わる」と言うことを信じていないのです。

普通の人が考えるのは、「罪びとに慈しみを見せたら、さらに悪くなる」と言う考え方です。気をつけないと、私たちも同じことを考えていて、例えば、教皇が、「再婚した人たちに対してご聖体を与えましょう」と言うと、「そんなことをしたら再婚する人が増える」と、だいたいそう言ううふうに考えます。
結局深いところでは慈しみを信じていないのです。

自分は、この、言いやすくて、聖書にどんどん出てくるこの言葉を信じているかどうか。
教皇フランシスコは例えば、アルゼンチンで若い頃に管区長になったのですけれど、そのときはちょうど第二バチカン公会議の後で、辞めた神父がいっぱいいました。彼は管区長になってから、その人たちを探しに行ったのです。「戻りませんか」と。それは大きな反発を起こしました。なぜ、辞めた人に対してそんな態度を取るのだとか、その人たちを戻したら、度々悪いことを起こすだろうとか、後で勝手なことをやることになる、とか。
でも管区長は人は慈しみによって変わるということを信じていました。イエスも信じていました。私たちも、イエスの弟子ですから、それを信じなければ、信じない限り弟子になれません。

これは普通の考え方ではないです。これは祈りから生れます。

慈しみへの信頼が無いので、反発する

慈しみを見せると人は反発するんです。
わたしは教皇様が神学院の院長だった時に神学生だったので、いろいろなところに話に呼ばれて、教皇様が書いた文章とか、『愛の喜び』とか、それについての話をたのまれます。これらの文章は必ずいろいろな論争を起こしています。それらの論争は、深いところでは皆慈しみへの信頼の無さのためだと思います。あとからそこに神学的な根拠を付けるのです。たとえば、再婚を聖書は許しているかいないかとか。いろんなことを言いますが、そういう問題ではないと無いと思います。深いところでは、慈しみを現すと人は悪くなる、そう思っているからです。ただ、イエスはどうだったか、考える必要があります。

「ゆるし」ー慈しみが実行できないのは「ゆるし」がわかっていないから

「忘れること」「心の傷が癒えること」は「ゆるし」とは関係がない

もうひとつ、私たちが、なかなか慈しみが実行できないかというと、「ゆるし」についてわかっていないからです。
いろんな人が、キリスト教の中心的なことなのに、ゆるすとはどんなことかわからない。例えば、ある人たちにとっては、ゆるすことは忘れることです。「自分がされたことをなかなかゆるすことができません」と言う人にいつも私はこう言います。「ボケていることと慈しみ深い人になることは違います」と。ゆるすことは、忘れることではないのです。考えてみてください、聖書の放蕩息子のたとえとか。放蕩息子が戻って、お父さんが受け入れるんですけれども、お父さんが子供がやったことを忘れるとは思えない。ゆるしは違うと思います。私たちはやられたことを忘れることはできません。忘れることはゆるしではないと思います。
もうひとつの間違いは、人は、その傷が治らないとか、まだそれを思い出すと痛いとか。だから私はゆるしていません、と言う。それもまた私は違うと思います。それはどちらかというと心理的な問題です。心が痛くてもゆるすことはできます。
息子がお父さんが生きてる時に「財産を分けてください」というのは、ユダヤ教では大きな罪です。時代によって色々変わりますが、ユダヤ教では殺人が一番の罪で、二番目が、お父さんが生きているうちに財産を求めることです。それはお父さんの死を願うことと同じだからです。あなたが生きていると、私は楽しめない、だから早く死んでくれ、というようなものです。だから、それを子供にやられたお父さんは、もちろんそれを忘れることはないし、それはいいんだ、ということではないと思います。

「ゆるし」とは「相手にもう一度チャンスを与えること」「信じ続けること」「その人に賭けること」

では、ゆるすことはなんでしょうか。教皇が言うことですが、ゆるすことは、相手にもうひとつのチャンスを与えることです。あるいは、他の表現を使えば、信じ続けることです。
お父さんが子供をゆるしました、と言うことは、子供にまたチャンスを与えたのです。
イエスは「ゆるしなさい」という言葉をよく使いますが、時々違う表現で、「人を裁くな」と言うことがあります。
これはゆるしを理解するためにありがたい言葉です。「裁く」とは「裁きを下すこと」です。「この人は、罪人だから、罪びとです」という看板をつけることが裁くことです(決めつけること)。そういうことではなくて、「この人は悪いことはしましたが、罪とその人は同じではありません」つまり、その人にもう一度チャンスを与えることです。「裁く」はドアを閉めること。「ゆるす」ということは、その人の心の中に神様が働いていることを信じることです。
教皇がよく言うのですが、ゆるせない人は何が足りないかというと、信仰が足りないのです。
私たちが人をゆるせないのは「どうせこの人は変わりません。」と思うからです。ゆるす人は「この人の中にも神様が働いている」と思う。それを信じなければ人はゆるせません。なんでイエスは人をゆるせるかというとその人の中に神様がいると信じるからです。人の中には良いところがある、それを信じる、それに賭けるということ、チャンスを与えるということは、ゆるすことだと思います。

これを信じることは難しい。だいたい私たちは、チャンスを与えたら、さらに悪くなる、と思うのです。
私自身の小さな例ですけれども、ゆるしがどういう風に働くかという経験です。
私は23歳くらいの時、アルゼンチンの学校に派遣されました。失敗ばかりだったのですが、一つだけうまくいったことがありました。その時、中一の担任になったんです。小学校から上がってきた子供がいて、小学校から問題児だった…ピキという子だったのですけど、ピキは先生から罰を与えられても変わらないのです。中学校に上がったら変わるでしょうと言われていましたが、変わりませんでした。
ある時お父さんが話しに来ました。お父さんはお金持ちで、何かできたらピキにご褒美を買ってあげていました。だからピキは、小さいバイクも持っていたし。でも、何をやっても変わらない、お父さんはそう言って困っていました。
私はお父さんと話している時に、ひらめきました。
「多分、彼はこの学校にいても変わらないと思います。この学校にいても、みんなピキを悪い子だと思っているし、悪循環です。罰を与えると、自分は悪い子だと思って、また悪いことをする。彼のことを知る人が誰もいない学校に行ったらどうでしょうか?彼の良いところが出て、変わるかもしれません。」
そう言ったら、お父さんもそれはいいかもしれない、ということで、ピキは転校しました。そうしたら、すごくうまくいって、次の年、ちょうど日本に来る前、お父さんがやってきて、「先生、あれは最高のアドバイスでした。今の彼を見たらみんなびっくりするでしょう」と言いました。
これは、ゆるしの意味を説明するのにいい話です。今までの学校では悪い子だとレッテルを貼られていて、決めつけられていましたが、学校を変わることで、彼には新たなチャンスが与えられた。これが「ゆるし」です。

もちろん、人は、チャンスを与えられて、また、悪いことをするかもしれません。よい業には必ずリスクがあります。
イエスが殺されたのは、最終的にはそのためです。しかし、イエスはどれほど人を救ったか!
ゆるしは人の中にいる神の働きに賭けることです。人にチャンスを与えることです。聖書にゆるしの箇所はたくさん出てくるのですけど、それをゆっくり祈るのも大事です。

私は、ゆるしを本当に信じているかどうか。そして、人のチャンスを与える勇気があるかどうか。今、私たちは、そのために黙想をやっています。
神様、その力をください。あなたのように人を信じ続ける力、神様は私たちに、最後までチャンスを与えてくれる。ゆるすのはそういうことです。

私たちはゆるしなしに人を愛することはできない

もう一つ教皇が協調していることですが、私たちは、ゆるし無しに人を愛することはできません。もし、私たちが、良い人だけを愛したければ、誰も愛することができないと思います。間違いなく、みんな欠点があります。ゆるせない人は人を愛することができません。
教皇が言っていることですが、祈る時に、「私たちは、度々罪を犯しました」と言いますけれど、そうではなくて、神様はいつもいつも私たちをゆるし続けてくださっているのです。考えてみれば、神様は朝から晩まで私たちをゆるしてくださっています。生まれてから死ぬまで、私たちに我慢してくださっている。私たちにチャンスを与えています。それでも、私たちは全然変わりません。
神様は私たちを毎日ゆるしながら生かし、恵みを与えてくださっている。私たちは神様のゆるしの中で生きている。

教皇の好きな言葉、司教になった時に選んだ言葉ですけれども、「ゆるしながら選ぶ」、その言葉は元々なんであるかというと、マタイを選んだ時ににイエスが使った言葉です。マタイは悪い人でした。イエスは「あなたは、良い人になれば弟子になれるよ」ということではなくて、「ゆるしながら、賭けながら」選んだのです。私たちは神様の家族ですけれども、ゆるされながら、ゆるしの中で生きている。だから、私たちも人に対して同じことをやらなければなりません。ゆるしながら愛する。ゆるすことがなければ、愛することは不可能です。
教皇が神学院の院長であった時、神学生がたくさんいたので、大きな食堂でたくさんのテーブルがあったのですが、一人の神学生がちょっと敏感で、人と喧嘩をすると、その人と同じテーブルに座らないのです。教皇は気がついて、ちょうど、私の隣だったので、「どんどん好きじゃない人を避けていたらいつか一人で座らなければならなくなるよ」と言いました。つまり、世の中に完璧な人はいないわけですから、良い人だけと付き合うわけにはいかない、ゆるさなければ、一人になるしかない、のです。
「ゆるしながら、愛する」これはもう一つの大切なポイントです。神様がどういう風に私たちを愛しているかを考えれば、他人の欠点をもう少し我慢できる。「ゆるしながら、愛する」、これができない人は、イエスのように生きることはできません。

ドアを開けるー外に出る、内に入れるー

もう一つは、ミッションを考える時に教皇がよく使う言葉が、「外に出る」ということです。あるいは、「外に出る」というよりも「ドアを開きましょう」ということが、教皇フランシスコの文章によく出てきます。
これは、院長だった時も同じことを言っていました。今でも覚えているのは、「中の問題、例えば共同体の問題は、外に出ることによって治る」と。
何が言いたいかというと、共同体でも「誰かと誰かが喧嘩してる」とか、それは、ミッションを忘れているから起こるのです。もし、私たちの、一番大切な目的「困っている人を助ける」を忘れると、共同体の中に問題が出てきます。だから、外に出ることは、ものすごく大切です。
面白いことに、共同体で喧嘩している二人に、外のこと考えてください、と言って仕事を与えると、喧嘩をしている暇がなくて、仲直りします。

これは聞いた話ですけれども、教皇が新しい教皇を選ぶ前に、枢機卿たちがお互いを知るためのスピーチする場があるそうです。教皇フランシスコは初め誰も教皇になると思われていなかったのですが、彼のスピーチを聞いて、みんながはっと思ったそうです。彼は、「今の教会にはたくさんの問題があります。ほとんどの人たちが、問題を解決するためにはどうしたら良いか、と考えますが、教会の問題を解決するのは、外に出ることです。ミッションを忘れると、いろんなわけのわからない問題が出てきます。だから外に出る、教会のドアを開きましょう」と言ったのだそうです。

彼はこう言っています。「私たちはドアを開けるためには二つの目的があります。一つは、出るため、もう一つは、外に人が中に入るため」この二つのポイントについて説明します。

外に出る

まず、私たちはドアを開いて外に出なければいけない。現代社会は守る、安全のために壁を造りましょうというのが多いんですけど、我々クリスチャンは逆にドアを開けなければならない。

外というのはなんでしょう。自分の考え方の外、彼は、「聖霊に耳を傾けましょう」と言います。聖霊が必ず「外」、私たちが考えたことのない「外」に引っ張ってくれます。
私たちが外に出られないのは、新しいことに引っ張ってくれる聖霊の働きに耳を傾けていないからです。

教皇フランシスコが教皇は、バチカンに行ってからいろいろなことを変えました。バチカンで物事を変えるのはとても大変なことです。何百年前からの習慣ですから。
教皇は、ローマの外、アルゼンチンから来て、いろんな反発があると思います。歴代教皇の使っていた宮殿に住まずに、ずっとサンタマルタという普通の神父が住む家に住んでいるとか。いろいろ教皇が使うものは決まっていて、靴でさえ決まっているのに。聖木曜日は刑務所に行って受刑者の足を洗うとか(いろいろ変えました)。
教皇がそれをできるのは、聖霊に耳を傾けているからだと思います。
教皇様はこう言っていました。「聖霊(あるいは)神様はいつも私たちより若い」と。
彼が言いたいのは、「神様に従うのは難しいことではない、難しい、というよりは、疲れる」と。なんで疲れるかというと、聖霊が若いからです。人間が、もういいんだ、ここに留まりましょうと言うと、聖霊はいつも新しいことを言う。だから、聖霊に耳をかたむけていると、いつも外に出ます。自分の考え、自分の習慣の外に。

これは今の教会に必要なことです。ただ、それをうまくやらなければならない。聖霊に耳を傾けながら、聖霊の望みを聴きながらやらなければならない。

私は神父になってから、スペインで哲学を勉強しました。スペインにいるとき、あるとき、ローマに行く用事があって、ちょうど、教皇がまだ、教皇でなかったとき、ローマに滞在していたので、一緒にローマを散歩しました。ある街角にパンクの子供達がいて、すごい格好をしていたんですけど、彼は私に「あの子達は何を考えているんでしょうね?」と言ったんです。私も、「何も考えていないんでしょう」と言ったら、教皇は彼らにどんどん近ずいていきました私はシャイだから遠くから見ていたんですけど…教皇が近づくと、彼らはバカにして、「神父さん今日ミサないわけ?」とか「することないのかよ?」とか言うし。教皇は、私たちはアルゼンチンから来て、何も知らないんだと言ったら、若者の一人が「俺たちも変な格好してるけど、あんたらも変だね」と言ったんです。「そうだね!共通点があるね!」と言って、うまくいくような感じだったので、私もホッとして近くに行きました(笑い)。(教皇になって)ローマに行ってから、彼らに再会して、私のことを覚えてますか?と言ったら、彼らはそのときあげたカードをまだ持っていたそうです。

とにかく、人を信頼する人なのです。私だったら、この人たちは話す価値がないでしょう、と言って、自分を守ると思います。それは外に出る、と言うことの反対だと思います。自分の考え方、自分の慣れている場、から。

教皇はよく説教で言うのですが、イエスは外に出る。聖書の中の良い人たち、マリア様もそうですけれど、みんな動いている。
悪い人は外に出ません。祭司たちは神殿の中にいる。ヘロデも宮殿の中にいる。例えば、3人の博士が来た時も。3人の博士は自分の国から出て来ました。ヘロデはどう言ったかと言うと、「探してくれ、見つかったら知らせてくれ」です。
出る、ということは安全ではありません。ただ、言えるのは、聖霊に耳を傾ければ、必ず外に出る。

中に入れる

もう一つ、ドアを開けるのは、外にいる人が中に入るためです。それも教会に必要です。
教皇がいつも言うことですけど、神様の心は私たちの心より広い。だから、いろんな人達を中に入れましょう。
教会では様々なチャレンジがあります。同性愛者の問題、再婚した人たちの問題、そういうことに、すぐ私たちは聖書の中からいろんなことを引っ張って来ます。でも、それよりも、神様の心は広いし、神様の家には部屋がいっぱいあります。
考えましょう、もしかしたら私たちは神様の家をあまりにも狭くしているのではないかと。

今外にいる人たちを神様も中に入れることを望んでいると思います。
教皇フランシスコが司教だった時に、あるカップルがいて、そのカップルは、二人とも離婚していて、一緒に生活していたんですけど、その人たちは本当にいいクリスチャンなのに、教会の仕事をさせてもらえませんでした。でも、教皇フランシスコは同じ状況にいる人たち、再婚者のための使徒職を任せました。その人たちは、良い人たちで、話を聞けばどんなにいい人たちかわかるんです。その人たちは自分たちのグループを始めて、いく場所のない再婚者の人たちを集めました。でも、ほとんどの教会は場所を提供しなかった。
私たちはすぐにドアを閉めたくなる。すぐ、聖書や神学に何かを探したくなる。もちろん、聖書にはいろんなことが書いてありますが、それをどう言うスピリットで読むか、と言うことです。
「神様の心は間違いなく広い」この言葉には何の危険性もないと思います。これを考えながら、まだ私たちが入れていない人はいないか、と思います。

リスク無しに人を助けることはできない

ドアを開くとか、外に出るため、中に入れるために一つ、みなさんが考えないといけないのは、リスクなしに人を助けることはできないということです。
ドアを開く、と言うことはリスクです。ある人たちはリスクは欲しくない。これはクリスチャンではありません。リスクなしに、そして、面倒臭いことなしに人を助けることはありえない。

リスクのない、面倒臭くない人助けはすごく易しい人助けで、そう言うことを教会でしている人もいますが、リスクが出て来たり、面倒臭かったり、それは当たり前です。
それだからやめるとか、やめないとかではない。それが、神様の望みか、そうでないかで決めるのです。

さっき話したように「ゆるし」人をゆるすことは相当なリスクです。だからイエスは十字架につけられた。ドアを開けることはとてもリスキーです。それを忘れてはいけません。

アルゼンチンの神学院にいた時に、ある夜、誰かがドアを叩いて、二人の中国人が現れました。その二人はスペイン語も喋れない、英語もしゃべれません。それで、「私たちはクリスチャンです。中国から逃げて来ました。泊めてください」と書いてある紙を見せました。もちろん中国大使館には伝えられない。で、泊めるか泊めないか、すぐ会議して、結局泊めることにしました。その二人の中国人たちは、私たちと一緒に生活していたんですけど、考えてみれば、家の中に入れて、幸いに、それは本当の話だったし、二人は少しずつスペイン語を学んで、教皇は一人の神学生に、中国語を学びながらその二人の世話をさせました。最終的にはいい話で、良かったんですけど、言いたいことは、ドアを開くことは、リスキーだし、面倒臭い。修道院の中に生活することになって、二人は入ってはいけないところに入ったりして間違うし。でも、人を助けることはそういうことだと思います。私たちの神学院の中には、何人も関係ない人が住んでいました。一人はロシア人、名前が難しくて、私たちの学校は「コレヒオ・マキシモ」といったので、私たちはその人をマキシモさんと言っていました。その、マキシモ爺さんはずっとそこに死ぬまで住んでいて、多分この中国人と同じようなケースだったと思います。最後は、一人のおばあさん、その人はいつも物乞いしていたおばあさんでした。一人一人に、必ず反発する人がいて、そう言う人は、必ずそこの神学的な理由を見つけて反対します。修道院の中におばあちゃんを入れていいんでしょうか、とか。でも一番の問題は、それを今までやったことがないとかでしょう。

だから、ドアを開きましょう、聖霊に任せたら、いいことになると思います。ミッションに関しては、一つはゆるし、もう一つは外に出ること。それにはリスクが伴う。

教皇はアビラの聖テレジアが好きで、アビラの聖テレジアはよく面白いことを言うんです。教皇がいつか話の中で使ったんですけど、「神様はなんでもできると言われていますが、一つできないことがあります。それは商売です」とアビラの聖テレジアは言ったんです。アビラの聖テレジアの家は商人の家だったそうです。
商売をする人はいつも勝ちたいのです。
神様は商売が下手です。ごまかされることが多いし。私たちはゆるされても、ちっとも変わらないし。言いたいことは、神様はいつもリスクを取っているのです。自分の子供を売って、十字架につけられるなんて、すごく悪い商売です。
アビラの聖テレジアが、これも言っていたのですが、「商売の上手い人は聖人になることが難しい」
負けたくなければ、イエスの弟子になれない。イエスの弟子になるのは、リスクを取るしかないんです。絶対負けたくない人、負かされたくない人、バカにされたくない人はイエスの弟子になれない。

「ドアを開きましょう」と言う言葉は美しいですけれど、実はすごいリスクです。傷つけられる可能性が高いし。ただ、それはイエスの弟子になる唯一の方法だと思います。

他者をご聖体のように大切にする

教皇はご聖体を非常に大切にします。
教皇が司教だった時に、「私たちは、他者をご聖体のように大切にしなければならない」と言っていました。
私たちは、ご聖体をものすごく大切にします。イエスが「これは私の体です」と言ったから、当然これを大切にするんですけれども、しかし、考えてみれば、イエスは同じようなことを他者に対しても言っているのです。
「この人にやったことは、私にやったのです」と。もっとも小さい人をつまずかせる人は海に飛び込んだ方がいい、と、厳しいことを言うのは、どれほど小さい人がいじめられないかを心配している証拠です。
ご聖体ももちろん大切ですが、同じ尊敬を人に対して持てたらと思うのです。
小さい人をいじめる人は海に石をつけて飛び込んだ方はいい、とはすごい言葉だと思いませんか?
教皇の最も魅力的なところは、どんなに問題のある人でも、そばに来た人の問題を自分の問題のように、最後まで、解決できるまで手伝うことです。まるで、神様から送られたかのようなに、来る人を見捨てない。最後の最後まで大切にする。
一つの例を出します。1982年にアルゼンチンとイギリスの戦争がありました。私たちの神学院の隣に教会があって、神学院の院長がそこの教会の主任司祭をやっていました。戦争が終わった後、その教会で小さなミサがあって、それはその教会から戦争に行った若者が、皆無事に戻ったことの感謝のミサでした。ところが、ミサが終わった後、一人の女性が香部屋に入って、教皇は着替えていたんですけど、「実は私の子供がまだ戻っていません」と言いました。教皇はその日から祈りと断食を始めました。4日目にその子供が戻ったのです。
教皇は人の問題を自分のことのように、解決するまで休みません。

私たちは、そのように人を大切にしているでしょうか。
イエスはそうだったのです。イエスに何か頼みに行った人たちは、そうしていただいた。聖書にたくさんの例があるのは、そのためだと思います。イエスは一人一人を大切にしていました。ご聖体のように大切にすることの意味はそれです。

「一人一人は神様から送られた宝物」「誰を助けるかを選ばない」と教皇はよくおっしゃいます。人生で送られて来た人、誰でも大切にする。
すでに、教皇になられていた時、イタリアのあるサッカーチームが挨拶に行ったそうです。教皇はゴールキーパーに「私はゴールキーパーの仕事が好きです。ゴールキーパーは、ボールがどこから来るか選べない唯一のポジションだから。実は良い牧者の仕事は、これです」とおっしゃったそうです。

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