【今日のミサ説教】ヨハネ福音書15章9-17節「イエスこそ真の友」
ヨハネ福音書15章9-17節「イエスこそ真の友」2024年5月5日復活節第5主日ミサ六甲カトリック教会
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいます
- 「友」は、喜びも、苦しみも分かち合います
- 私たちが苦しい時は、イエス様も苦しい。それは、友だからです
- アビラのテレジアのエピソードが聞けます
せっかくイエス様が友情を示してくださっているのに、知らんぷりしてしまっているんだね。
ヨハネ福音書15章9-17節
9 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
ヨハネ福音書15章9-17節「イエスこそ真の友」
今日の文章はヨハネの15章、最後の晩餐のイエス様の特別説教というかですね、この長い弟子たちへの言葉の中の一部分が朗読されました。今日の言葉の中にも、非常に味わい深い言葉がいっぱいあるんですけれども、とりわけ目立つのは、イエス様は、「私はあなた方を友と呼ぶ」というふうにおっしゃっています。
イエス様が私達を友として扱うというんですかね。友としてくださるということですから、これは本当にちょっと驚きの言葉だというふうに個人的に思います。私達が僕とか弟子とかっていうんだったら、イエスも立派な方ですから、あれですけど、友という対等な関係でイエス様ほどの方と対等なともというのもちょっとちょっとびっくりですけれども、でも私達を友と呼んでくださるということですから、私達がイエスの友として、生きていくことができるか、歩んでいけることができるかということを、改めてですね、見つめ直してみるといいのではない思います。
友とは想いを共有する
イエス様が私達の友であるということは、やっぱりこの、喜びを分かち合ってくださる。やはり友達同士であるならば、嬉しいことを分かち合うのは当然なことだと言えるでしょう。だからはっきり言ってるんですよね。これらのことを話したのは、私のイエスの喜びがあなた方のうちにあるあなた方の喜びが満たされるからだと。
イエス様のご自分の喜びを私達も分かち合ってくださるということをはっきり言って、やはり友であるということは、嬉しいことがあったらお互い分かち合ってですね、それは本当に大きな恵みだと思います。イエス様とイエス様の喜びを私達が分かち合うことができるということですから。
そしてさらに、何で僕ではないから、父から聞いたことを全て知らせたと。だから私達の考えてることもそうですが、イエスの考えてることとか思ってることも、完全に分かち合ってくださるのだから、神様が何を考えてるのか全くわからないということではなくて、私達が神様といろいろな考えを想いを共有することができるということです。
友達同士だったら大体こんなこと、やはり、いろんなことを話してですね、人にも話せないこと、分かち合ったり話し合ったりする。それが友だというんですよね。神様とそのような関係を私達は結ぶことができる。さらに言うと、友であるってことの一番大事なことは何なのかっていうことですね。
イエス様と苦しみを分かち合うーアビラの聖テレジア
スペインの神秘家で、アビラのテレジアという人をご存知の方もおられるでしょうけど、非常にこの深い神秘的な神秘家であって、神様との深い交わりを持ちながら、しかもですね、実際的なこともできるタイプだなので、カルメル会を改革したんですよね。
今のカルメル会っていうのは、アビラのテレジアが改革した、非常に厳しい厳格な修道生活を送るものです。西宮にもカルメル会があって、私の知り合いも、おられますけれども、その基礎を作ったのがアビラのテレジアなんですね。
このテレジアの伝記とか読んでて思うのは、苦労が多かったっていう感じですね。思うんですけど、ゼロから修道会を作る方が簡単だというふうに思います。既にあるものを途中で変えるっていうのはもっと難しい。
なぜかって言ったら、変えたくない人々がいる。そうですね。妨害っていうんですかね、反対とかいろいろそれがあるので、アビラのテレジアも、大したもんだなというふうに本当に思いますね。すごいエピソードになると、おそらく規律がその非常に乱れている女子修道会に司教さんが彼女を院長として任命して送るんですよね。
そしたら反対派が怒って、修道院の門を閉めて、彼女を載せた馬車が入れない。賛成派はお聖堂で祈ってるんですけど、結局市の警察が介入してですね、強制的に門を開けて、彼女を院長としてその修道院に送り込んだとか。だってそんな反対がいっぱいある中で院長なったって何ができるのかって思いますが、それがテレジアすごいところで、それでその修道院を改革することを成功するわけですけど、あまりにも彼女には苦労が多かったんですね。
イエス様との親しい交わりの中で、テレジアが愚痴って、なんで私はこんなに苦しまなきゃならない、次から次へと苦しみがいっぱいあって、もう私はもう大変ですと。イエス様の直接文句を言ったんですね。そしたらイエス様が、それはあなたが私の本当の友だから、ということだったんですね。
それを聞いてテレジアが、だからあなたの本当の友達は少ないんですって言って。まあ、伝説ですけど。でも、結局そうでしょう。やはり友っていうことは、喜びを分かち合うとともに、苦しみを分かち合う。苦しいときに離れていくのは本当の友達じゃないわけで、苦しいときにこそ助けてくれるのが本当の友の一番の証だと言えると思うんですけど、私達がイエスの友だとしたら、本当の友か、いいとこ取りの友かってことなっちゃうわけで、もちろん恵みとか喜びはいくらでもいただけれども、ちょっと苦しいことがあったらそしたらイエス様と関わらないないとしたらですね、それは本当にイエス様の本当の友であるかどうかっていうことですね。
でもテレジアの時代から本当の友は少なかったってテレジアは言ってるので、それほど多くないのかもしれないんですけど、でも私達が本当の友として、イエス様とともに歩むことができるならば、それはもっと大きな喜びを分かち合えるでしょうし、自分にとってもそれは大きな喜びになるんじゃないかというふうに思います。
なぜ苦しむのか、それはイエスの友だから
その伝説もいろんなバージョンがあって、その後にイエス様がこう答えたっていうんですね。もし人間がこの苦しみにどれほどの意味があるかということがよくわかっていたら、人々はもっと苦しみをくださいと私に願ったであろう、というふうにテレジアに答えたというバージョンもある。でも実際私達はやっぱり何か苦しい事があると、なんで自分ばっかりこんなに苦しまなきゃならないのかとか、こんなに真面目に日曜日教会に来て祈って、こうやって真面目にやってるのになんでこんな苦しまなきゃいけないのかだとか、いろいろある。
いろいろ気持ちがね、愚痴も出てきますが、それははっきりしてます。イエス様の友だからなんですよ。イエス様の本当の友だからこそ、苦しみを分かち合える。私たちはそのような存在である、ということですから、それが本当にわかるならば、やはり苦しみを超えた恵みの世界も、イエス様とともに、私達は分かち合うことができるんだろうと思いますね。
なかなか現在は、孤立の時代になりましたから、何か寂しさの時代です。なかなかね友達とか、なかなかちょっと難しい時代になってるかもしれないですが、でもイエス様こそ私達の本当の友であるというふうにイエス様言ってくださってるわけですから、私達がイエス様の友として歩めるように、そのイエス様の友としての喜びと苦しみ、両方分かち合いながらですね、イエス様と真の友情を培う、その恵みのうちに歩けるように、ともに祈りを捧げたいと思います。
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