説教ライブ

【ミサ説教】マルコ福音書7章1-13節「よいものに戻る」

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マルコ福音書7章1-13節「よいものに戻る」2025年2月11日いやしのミサ六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 神様は「よきもの」として人間を創造されました
  • 真の癒しは、その「よきもの」に戻っていくこと
  • 自分自身の「よさ」に戻っていくことを祈りましょう

ルルドの聖母の日のいやしのミサです

福音朗読 マルコ福音書7章1-13節

そのとき、7・1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』

8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」9更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。10モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。11それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、12その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。13こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

よいものに戻る

今日の朗読した福音書はマルコの7章ですけどもイエス様がですね、このファリサイ派の人々や、律法学者たちに対して、割と批判するようなことを述べているところです。

一つのポイントは、この手を洗って食事をするというのが律法で定められているわけですが、イエスの弟子たちは、手を洗わないで食事をする者が混じっていたということですね。ファリサイ派や律法学者からイエス様がかなり激しく、攻撃されていたであろうということです。

実際、なんで律法にですね、その食事の前に手を洗うのかっていうことが規定されてるかというと、基本的には衛生上の問題から、このような規定が入ったんだろうと思われますね。今よりももっとやはりドロドロしていたところあるいはほこりりっぽいところでしたでしょうから、やはり衛生上の問題から、その日本人もね、そういう方多いと思いますけど、ちゃんと手を洗ってから食事をするというですね、いうことだったと思います。それが結局律法になると、なんかちょっとおかしくなるというです。

今でもイスラエルのですね、いわゆる正統派の行くレストランは必ず入口に手を洗うところがついてるんですよね。ちゃんとその律法にかなった手の洗い方ができるようにということで、レストランの入る前のところに。それがあるのが正統派のレストランだなってわかるぐらいはっきりしているんですけども。もちろんそれは手を洗ったらもちろんいいとは思いますけれども、でもそれを絶対化するところに、何か一つの問題、しかもその何か宗教的なものにすり替えていくところで、何か本来の考えからずれていくようなところがあるということですね。

手を洗うか洗わないか。もちろんね現代でも手を洗った方がいいわけですけど、でもやっぱりちょっと間違うと、こういうのっていうのは、何て言うんすかね。ちょっと狂ってくるところがあって、もうそれは、わずか二、三年前のことですけど、やっぱりコロナが流行ったときとかですね、それは感染症対策をするっていうのはもちろん基本だったわけですが、結局どんどんですね、あの人マスクしてないから、手を消毒してないとか、何とかかんとか、もうこの話は実はそんなになんか過去の話ではなくて、でもやったらもうあの神父さんもどうのこうのとか、いろいろいろいろ。感染症対策しない方がいいってことはないですよ。それはちゃんとやっぱした方がいいですし、特にやはり、病気とかそういう感染症とか、そういうことがあったら、昔と今も違いますから、やっぱり適切な対応しなきゃならないし、病気になったときは、それは適切な病気の対応を取るべきですよね。

だから、例えばがんになってもちゃんと手術してやればいいんですけど人によって代替治療に走っちゃって、何かとんでもない療法、とんでもないかどうかもわからないけど、それでかえって悪化させるとかですね、やはり適切な答えを出すべきなのはべきですけど、でもイエス様はそういう手を洗うか洗わないかという次元で物事を見てないんですよね。

もっと根本的な癒し、根本的な救いを、イエス様は私達に約束してくださっている。その観点を失ったら、私達は何かずれてしまうと。イエス様の考えたことは何かって言えば今日の第1朗読ですけど、やっぱり創世記の一番最初に神様は私達と大自然をよきものとしてお作りになったっていうですね。

私達1人1人が、そして大自然も全て良きものとして作られてるとイエス様がやはり私達に強調したのは、この良きものに戻るっていうんですかね。なんでよきものが良くなくなっちゃったのか、結局人間の罪というか、人間の計らいがごちゃごちゃしてですね、環境も破壊して、自然との関係もぐちゃぐちゃになったり、人間関係がぐちゃぐちゃになったり人によってはその心労を心とか体に抱えたりしてしまうけど神様は元々作ってないわけですけどあれですけど、人間は勝手にぐちゃぐちゃにしちゃったわけですからそれをですね、やはりイエス様が私達を癒してくださるのは、人間のあるこの自然の元々ある良きものにいわば戻してくださる。

そのような働きが、やはりイエス様の根本的な癒しの業だったと思います。だから私達はどうしても現象に捉えるかって洗ううとか洗わないとか、薬とか飲まないとかですね、この病気がなくなるかななくならないかとか、その目に見えるところにとらわれて、そこで振り回されますけど、でもイエス様の癒しはもっと根本的な私自身の存在の根本的な要素に戻る作られた神様の恵み、あるいはそれは人間関係にしても何にしてもですね、その良きものとして自分が作られて、周りの人も良きものとして、そして周りの大自然も良きものとして作られてる、その現象の良さっていうんですかね。その後、何かこの創造のエネルギーそのものがイエス様の中にあるから、イエス様が病人を癒やすとか、罪を許すとか、全部やはりこの神の創造のエネルギーで人間のよさに戻してくださるようなそういうものだったと思いますね。

だから手を洗う、洗わないとか、おかしいんですよ。だから次元が全然違ってるっていうか、でもファリサイ派や律法学者とかはわからないから、結局手を洗う洗わないお供物をどうするかそうするかみたいなことで、気持ちが凍ちゃってるわけですよね。

だから大きくずれてるわけですけど、私達の本当の癒しは、自分自身の本来の良さに一人ひとりがいかに戻っていけるかどうかっていうですね、よきものとして作られてるわけですからね。ただ年を取ってきて自然に老化するのも仕方がない。それはね。それまではちょっとあれですけど。自然法則の流れがありますから、それを避けられないところも多々ありますけれども、私達がこのよきものとして作られて、良き関係を結んでいくように、元々作られた元々の良さを思い出し、そこに戻っていくことが本来癒しの根本的なことじゃないかというふうに思います。

癒しというのは私達1人1人だけじゃなしに、やっぱ大自然そのものにもやっぱり癒しが与えられなきゃならないでしょう。実際この、最初に作られたですね、人間に対して、産めよ増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全て支配せよ、って言ってんすけど、支配っていうのは誤解がありますけど、自分の勝手に扱っていいってことでは全くないですよね。やっぱり管理するっていうか、自然と調和して生きていくように。ただ支配するって漢字が面白いんですけど、漢字で書くと、支え配るっていう「支配」。だから別にこの横暴に何でもしろと実は何にも言ってなくて、支え配るようなことを人間に託されている。しかも食べ物はこう書いてあるんですよ。全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を全てあなたたちに与えよう、それがあなたたちの食べ物となる、って書いてあるんですけど与えられてんのは実はね、植物だけなんですね。だから最初の人類菜食主義者だったんです。お肉を食べてないんですよ、本当のところ。だから多分もっと自然と人間が調和してる人のしるしでしょ。動物にこう言うんですよね。地の獣、空の鳥、地を這うものなど全て命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう、って感じで動物もみんなね菜食の動物しかいなかった。最初はね。だから結局いつから人間や動物が肉を食べるようになるかって言ったら、洪水の後なんですよ。そこで初めて神様がお肉食べていいって人間に言うんですけど、元々はね、お肉も食べない。つまりだから動物を殺さなくていい世界だったんですね。動物同士も殺さない。肉食動物がいないわけだからだから、自然との関係ももっとお互いの良さを、自然と人間との間も、ある種の平和な世界っていうのかな、それが結ばれてるんですよ。

一つの理想像として描かれてるわけですけどね。もちろんイエス様も肉食べてましたから、別に今は肉食べたら駄目というわけじゃないですけど。でもこれだってね、あんまりお肉を食べすぎるのは良くないっていうのはいろんな意味で、言われてる。健康だけじゃなしに、動物の命の問題とかいろいろいろんなこと言われてる。水不足の問題から全ていろいろ言われてますから。でも、私達が癒されるってことは、自分が癒されたらいいってだけでも全然ないわけですから、自然との繋がりもやっぱり神様のつくったた創造の大きな調和の世界ですよね全てが今よしとされてバランスが取れてる世界に私達がどう戻っていけるかっていうことをやっぱりよく祈って求めなきゃならないと思いますね。

今日はルルドのマリア様の、祝日だと最初に言いましたけど、ルルドに現れたマリア様が無原罪の聖母として現れて、それでベルナデッタに何を言ったのかって言ったらですね、メッセージとして言ったのは、癒しを与えるとか実はあんまり言ってないんです。もう言ったメッセージははっきりしてて、「悔い改めよ」と。人類があまりに罪深いから、みんな悔い改めなきゃならないっていうことを、そのルルドのマリア様はベルナデッタに言ってるんですよね。その後、ファチマのマリア様も全く同じです。罪の、何て言うんすかね、悔い改めて罪の償いが必要。人類そのものがですね、そうしないと、人類に大きな危機的な状況が来る。ファチマの預言の後が秋田のマリア様もそうですけど一応公式には認められてないけどマリア様もあちこちに出現してメッセージをされたんですけど、もうほぼ同じなんですね。悔い改めなさいと。生き方を根本的に変えなさいということを度々言っておられる。それこそがやっぱり本当の癒しに繋がるものだと思いますね。その、もちろん恵みとしてこのルルドの泉から湧く水でどれぐらいの人が癒されたかわかんないぐらい多くの人の病気が癒やされてるわけですよね。でも、マリア様自身は癒しを目的として現れてないんですよ。

悔い改めをすることを一番の目的として、私達に告げて、恵みとして癒される人が多々いるということなんですよね。神様は私達が病気でいたり、苦しんでるってこと自身を良しとはしてない。やっぱそれは本来的じゃないんですよね。

だから私達が本当にこの手を洗うか、洗わないかという次元のクリアためじゃなくて、根本的に人間の良さに戻る。与えられてる神様から与えられているこの世界のよさに戻っていくように私達が根本的に生き方を変えていける。

物事の見方を変えていけると、そこに本当の癒しがやっぱり与えられる。それが大切なことではないかなと思いますね。私達に与えられている、与えられてるとか、来てる、病気とか苦しみとか困難とか様々ありますが、それらをしっかり受け止めながら、でも本当に神が作られた良さに戻っていけるように私達の生き方を改めて行ってですね、軌道修正しながら、神様の癒しの世界に預かっていけるようにですね、心を合わせて今日は祈りを捧げたいと思います。

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