【ミサ説教】ルカ福音書1章26-38節「どうしてこのようなことが、と思うとき」

ルカ福音書1章26-38節「どうしてこのようなことが、と思うとき」2025年3月24日いやしのミサ旅路の里
今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ
- マリア様の生涯は「どうしてそのようなことがありましょうか」の連続だったでしょう
- これは、私たちの人生でも同様です
- その答えはすぐに得られるものではありません
- また、すぐに受け入れられるものでもありません
- ただ、十字架のイエス様と共に歩むことしかないでしょう
- 十字架の先にこそ恵みがあるからです

3月25日の神のお告げの祝日の朗読箇所です
福音朗読 ルカ福音書1章26-38節
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。
そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。
どうしてこのようなことが、と思うとき
ルカの1章イエス様はマリア様がイエス様を身ごもった時のエピソードが語られているのですよね。イエス様の誕生日が12月25日ですから、9ヶ月間マリア様の中にいたということで、この3月25日がイエス様がマリア様の体に宿ったということを記念している祝日になるわけなんですけど、ナザレという小さな町でヨセフといういいなずけがいて、で、彼女はマリアという名前で14歳ぐらいだったのか、10代の前半だったと思われますけれども、昔は結婚が早かったので。
でも、天使ガブリエルが来て、急にあなたは救い主を産むことになると言ったら、マリアは非常に驚いて、どうしてそのようなことがありましょうか。私は男の人を知りませんのにと言ったわけなんですね。実際、聖霊によってマリア様はイエスを身ごもったんですよね。
だから、ヨセフ様と肉体関係はなしにということで、時々信じられないことが世の中に起こりますが、もちろん信じられないようなことではあるのですが、だいたいマリア様も信じられなかった。どうしてそのようなことがありましょうかと言うわけですよね。それを天使がマリア様といろいろ話して、それで最後にマリア様は納得して、「私は主のはしためです、御言葉通りこの身になりますように」、と、それを受け入れることによってですね、マリア様の胎にイエス様が宿って、そこから救いの歴史が始まるということになったわけですが、もちろんマリア様は人間であって神様ではないわけですから、そこに大きな戸惑いや苦しみがあったということなんですよね。
どうしてそのようなことがありましょうかということを、多分マリア様も何回もその人生の中で言わざるを得なかった。いろんなトラブルとか、赤ちゃんを産むのにわざわざベツレヘムまで行かなくちゃならなかったとか、馬小屋でですね、産まなくちゃならなかったとか、その後すぐエジプトに逃げなきゃならなかったとか、様々なトラブルがあって、どうしてそのようなことがあり得ましょうか、というふうに思うことは多分度々だったと思われますが、でもそれを言いながら、やはり祈りの中でそのことをよく思い巡らすことによって、御言葉通りこの身になるように、ということを受け入れながら歩む人生だったと思います。
結局、私たちは主に癒しを願いながらこのミサに集まっていますけれども、やはり病気をするってこともそうですよね。どうしてそんなことが自分に突然降りかかってきたのかとかですね。
そのようにやはり私たちも度々思いますけれども、でもやはりそれを祈ったり、考えたり、人と話したりしながら、でも言葉通りこの身になるようにというふうに受け止められるかどうかということが、私たちにとって一番大切なことでしょう。それは癒しにしても、苦しみから逃れていくにしてもですね、様々な困難にしろ。
今年は特に阪神淡路大震災の30周年の年なので、ちょっと神戸に住んでいますから、そのことについてみんなと話すチャンスもいろいろあって、30年前ですけど、その時の混乱の話とか、なんかいろいろいろいろ。東北の東日本大震災の14年目になるんですけれども、ずっと私、釜石で支援活動に関わっていたのですが、とうとうそのNPOも閉じることになって、この前の3.11は釜石に行って最後のお祈りを捧げてたんですけど、でもやっぱり同じように14年間の様々な苦しみというんですかね、どうしてそんなことがあって、なんで私たちは津波にあうのかとか、この家が壊されちゃったのかですね、福島でお祈りを捧げた時に、3.11の後にお祈りやってたんですけど、一人の教会の教会委員長の人がですね、僕に聞いたのか、神に聞いたのか、
「福島の人がなんでこんな苦しみを受けなきゃなんないのか」ということを、彼はもう怒りながら言っていてですね。その通りだけど、誰も答えよう答えはない。
なんで私たちがこんな苦しみを背負わなきゃならぬのか分かったら、それは受け入れることができるけど、こんな理不尽なことをなんで自分たちは受け止めなきゃなんないの?みたいな感じなわけですよね。だから、どうしてそのようなことがありましょうかって、マリアの言った言葉は、私たちみんなに共通することですよね。
病気であれ、苦しみであれ、災害であれですね、どうして、なんでこんなことになっちゃうのかということは度々私たちがつぶやくことですけれども、でもその中でマリア様と一緒にそれをどう受け入れていくかということが、やっぱり大事なことじゃないかなと思います。
そのためには何が大切かといったら、一つは聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む、やっぱり私たちに与えられている。聖霊の恵みは神の愛、聖霊の恵みが私たちにこたえる形、解決方法を示してくださる。この時のマリア様のは5分くらいの簡単なお話だったでしょうけど、5分で済むことはほとんどないというか、ほとんど神戸の震災の後30年間苦しんでますから、まだ癒えてない人いっぱいですから。でもやっぱりいくら時間がかかろうとも、でもやっぱり聖霊の恵みを受け止めながら、やっぱりそれをどのように自分の中で消化して、それを糧にしていけるかどうか。時間がかかるけれども、でもいいような何か、それが癒しのプロセスと言えるかどうかもわからないけれども、でもそれを問いかけながら、神様に。あるいは歩みながら、少しずつ答えが見つかってくることを私たちは願っているということですね。
「お言葉通りこの身になりますように」、ですけど、これはもうはっきり、マリア様の場合は神様の言葉が分かってたわけですけど、お言葉通りが分からない。何かメッセージとか何か分からないわけですよね。だからこそ、私たちは問いかけながら、その意味とか、何というか、どのようにそれを受け止めたらいいのか、自分なりに考えたり、友達と話し合ったり、あるいはやっぱり神さまからの何かメッセージは一体何なのか、みことばが私たちの助けになることもあるんじゃないかなと思いますね。
マリア様が「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」ということを一番強く思ったのは、いつかと言ったら非常にはっきりしてますけれど、途中でヨセフが旦那さんも死んじゃって、その時もショックだったでしょうけど、マリア様にとってどうしてそんなようなことが一番思ったのは、明らかに自分の息子のイエス様が十字架にかかった時だと思いますね。
人間に様々な苦しみがやっぱりありますけど、皆さんの中でもちょっと一人ぐらい経験があるかもしれないですけど、やっぱり一番やっぱり女性の苦しみの中の最大の苦しみは、我が子を失うことですね。度々起こるからあれですけど、しかも死んでいくのを目の前で見ているわけだから、この我が子がですね、その時こそマリア様はどうしてそんなことがありましょうかというふうに思ったのは間違いないと思いますけれども。
その大きな痛手を、でも彼女は逃げる事なくそばに立ち続けることによって、そしてその、それは本当に信仰の愛だと思いますけれども、イエスの十字架がかかって、みんながっかりして、これで全て終わった。なんですかね。イエス様もメシアとしてやるプロジェクトは、失敗に終わってもみんながっかり。でも、それが終わりでなくて、3日目にイエス様は復活して恵みの世界を示してくださったわけですよね。
だから、私たちが「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と思った時の最終的な答えは、最終的かどうか分からないですけど、やっぱり十字架のイエス様と共に歩んでいくというか、そのそばに身を置いて、いつかはその十字架がやはり復活の恵みに変えられていくように、マリア様と共に歩んでいくというかですね、そこに本当のいやし、本当の救いがあると思います。
十字架の苦しみを越えてこそ、復活の恵みがある。それを私たちが信じながら。だから最終的に御言葉通り好みになりますようにと言ってですね、私たちは受け入れ、乗り越えて、さらに前に向かって歩んでいくことができるんじゃないかなと思います。
マリア様のこの祈りの深さとか、信仰の強さというか、そういうものを模範にしながらですね、私たちも十字架から復活に向かっての歩みを進めていくことができるように。なかなか簡単なことでは、特に災害が大きければ大きいほど、簡単なことではないわけですけれど、それでも私たちが少しずつ十字架を受け止めて、復活の恵みに向かって歩んでいけるように恵みと力を願いましょう。
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