【ミサ説教】マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」

マルコ福音書 2章18-22節「新しいぶどう酒を受け止める」2026年1月19日カマのミサ 旅路の里
イエスの「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、古い慣習や安心にしがみつく人間の姿を突きます。人は慣性で生き、変化を嫌うが、福音は常に人を揺さぶり、変わるよう迫ります。新しさは異質な出会いや出来事から来るのではないでしょうか。障害者への合理的配慮や釜ヶ崎での体験は、視点を変え、人を新たにする恵みの場です。古い袋に固執せず、新しい革袋として生き直せるかが問われています。

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福音書朗読 マルコ福音書 2章18-22節
(そのとき、)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
新しいぶどう酒を受け止める
今日はマルコの福音書のイエス様の説教のところですけれども、この新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる、入れなさいという有名な言葉なのですが、この頃はまだガラス瓶がなかったので、プラスチックももちろんないですし、ガラスもない時代ですから。だから、ぶどう酒は樽に入れるか、樽に入れて運ぶのものですから、運ぶ際には革袋に入れて運んでいたわけですね。なかなか日本じゃほとんど見ないですけれど、スペインなんかに行ったら、ちょっと前までぐらいは使っていたんじゃないかと思うのですが、しかし、革袋もだんだん古くなってきてね。そうすると、新しいぶどう酒を入れたら革袋が破れてしまうようなことがどうもあったみたいですね。
だから、古いぶどう酒ならば、古い革袋に入れることができたわけですけれど、新しいぶどう酒を作ったら、やっぱり新しい革袋に入れなきゃならないという、そういう習慣があったみたいですよね。
新しいぶどう酒と新しい革袋、古いぶどう酒と古い革袋ということですけれども、結局どういうことか。
この新しい革袋と新しいぶどう酒というのは、イエス様が述べた新しい教え、福音的なものであって、この古いぶどう酒と古い袋というのは、旧約時代の、ここで言ったらファリサイ派の人々とか律法学者の人たちの世界を表しているように思いますね。
でも、なかなかこの、何というんですか、つくづく思いますけれど、人間には、人間には慣性の法則があるんですよね。何か繰り返して知ったことが身についているというか。だから、今までどおりにやるのがみんな一番楽いうか、一番心地がいいというのかな。
だから古いものを、だからだいたいあんまり変わるのが良くないというか、変わることがあんまりみんな好みではないというか。だいたい変えたりしようとしたら反対勢力がごちゃごちゃするんですけれども。なんでかといったら、慣性の法則があるからだと思いますね。だいたいそれに囚われていて、生活習慣でも決まっているから、それがずれるとすぐにいやいやになったりする人がいたり。
やっぱり人間はやっぱり基本がやっぱり古いぶどう酒が好きで、古い皮袋のままにいる方がやっぱり本当はいい、本当は心地いいんだと思いますね。
だから、律法学者とかファリサイ派の気持ちもわからないでもない、何か決まったとおりにやった方が結局楽だということですけれども。
でも、やっぱりイエス様の教えって、どこかそういう過去の繰り返しではなくて、いつも2000年前のお話ですけど、それでもある新しさがあってですね、私たちの生き方に問いかけたり、私たちが変わっていくようにいつも呼びかけられているところがある。
この福音の新しさを私たちが受け止めていけるかというかですね。
それによって、逆に、古い革袋を破ってもらって、何か新しく新しい革袋で生きていける、そういう何か促しを受け止めていけるかどうかってことじゃないかなというふうに思うんですね。
今ちょうど政治、これから選挙になりますから、もう古い革袋とか言っていられない感じで、世の中本当にぐるぐるぐるぐる動いているわけですけれども、経済とか国際政治もちょっとどうなのか。そこから新しいものが何でもいいわけじゃないけど、やっぱり何かこう、イエス様の教えは新しいものとしていつも私たちのところに来る、それを受け止められるかどうかということなんですよね。
だけど、新しいものが具体的にどういうところから来るかといったら、それは何かやっぱりこう、異質なものから来るっていうか、違ったものから来るというか。同じだったら同じだけど、違うものから来るから変わっていけるというところがあるんじゃないかなと思うのですが、たとえば他の例で言ったら、ご存知かどうか、障害者に対して差別ができないんですね。障害者差別ができない法律もできているし、例えばレストランに車椅子の人が来たら、いや、うちはだめですと断ったらだめなんですね。それは法律違反なんです。今の日本の法律で、来たら、合理的配慮と言って、今まではなかったかもしれないけれど、そういう人が来たら工夫をして受け入れなきゃならない。合理的配慮というんですけれどもね、例えばここだったら車椅子の方が来られても、エレベーターがあるから来られるわけですけど、もしエレベーターがなくて車椅子の方が来られたら、エレベーターがないからだめですと断ったらだめなんですよね。今はね、来られたらやっぱりそこでどうするかを考えなきゃならない。
幸い、エレベーターありますからいいんですけれども、エレベーターがなければ、多分障害者の車いすの方が来られたら、1階でやらなきゃならない。つまり、そうやってちょっと何とかを変えるという、その合理的配慮ができる限りの、急にエレベーターをつけられないからできる範囲でということが合理的という意味なんですけど、それを変えていく、そういうことっていうのが、ある種の新しさと何か物の見方を変えたりするところがやっぱりあるといういうことなんですよね。
例えば教会に例えば目の不自由な方が来られたら、掲示板全く読めないんですよ。そうすると、全部言葉で伝えなきゃならないとか、あるいは逆に聞こえない人がいたら、目に見える情報全然伝わらないから全部言葉にして伝えなきゃならないとか、これを変えなきゃならないんですけど、そういうのを合理的配慮というんですけれども、それを障害者の方が、いや、やっぱり同じ人格を持っているものとしてどこでも平等に利用できるようにってことではあるんですが、でも何かね、そういうことを工夫していく中で、新しい視点とか、新しい気づきとか、何かこう違っていくことができる、そういう恵みが与えられるという感じがしますよね。
だから、この釜ケ崎という街も、なんかこう、新しさがあるというのかな、この年末年始も、この家にもたくさんの中高生とかが来て、いろいろ勉強というか体験学習したんですけど、やっぱりね、そこである新しさがここにあるから、学ぶことがいっぱいあるんですよね。特に若い人にとっては。
何か新しさというのは、だから何でもかんでも新しければいいということじゃなくて、新しいものの中にある福音的な何かが潜んでいる。そういうものを私たちが発見できるかどうかというかですね。だから、単にここにはボランティアに来るということじゃなくて、学びに来るというんですかね。今まで学校に行って全く学べなかったことが、ここに来て新しいものを学べるって、変わっていける何かがあるというかですね、それはだからすごく大事なことですよね。
だから、ここに来るということは、あるいはここで働いているということは、ここで暮らしているということは、新しさを学んで新たにされていく。それは別に私たちだけじゃなしに、結局何かそういうところって所々あって、障害者の方もそういう使命があるわけですけれど、釜ヶ崎もその使命があるんですよね。それは何か新しい革袋になっていくヒントとメッセージが与えられるところだということなんですよね。
それは何かこう、聖書の言葉だけで中が来るわけじゃなくて、人とか生き方とか、それは何か古いものとはちょっと違う何かを通して私たちに与えられてくる。それを私たちが受け止めていけるかどうかというですね。だから私も何かここに来るたびに何か新たにされる気持ちというのは、別に何か特別なことがあるわけじゃないけれども、特別なことも時々ね、いろいろハプニングは当然あるんですが、でも、新たにされる恵みというのがあるということですよね。
それを私たちが一人一人新たにされるものは別だと思いますけれどもね。例えば病気になるとか、全然違う世界が広がるじゃないよ。動けなくなるとか、あるいは誰か友達が寝込んじゃうだけでも、何かそういうことで広がるというかですね。だから、私たちが絶えず新しいぶどう酒をしっかり受け止めながらですね、何か新しくなっていけるように、いつも。だから、今までがこうだからこうだと言ったら、もうそれで何にも何にもならないというか、何も起きないんですよね。今まで通りにやりましょうと、こうだからこうだという、それだけではやっぱり魂の成長がないっていうのかな。
何かこう想起をちょっとすごくするんですけれどもね。だから、それはまあ釜ヶ崎とか、こういう場もそうですし、一人一人の出来事とか、出会いもそうですが、そこからやはり私たちが新たなものになっていけるようにですね、恵みと力を願いたいと思います。
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