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【ミサ説教】マタイ福音書13章1~9節「種をまく人のたとえ」

マタイ福音書13章1~9節「種をまく人のたとえ」
hanafusafukuin

マタイ福音書13章1~9節「種をまく人のたとえ」2008年7月、信徒養成研修会、鎌倉にて

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」

有名な種まきのたとえですが、解釈はいろいろあるようです。こういう鎌倉という緑がいっぱいあるところに住んでいると、このたとえもとても身近なものに感じます。
いろいろな種がありますが、ほとんどの植物は良い土地に落ちて良い実を結ぶ、というのが本来の在り方だと思います。これがどういう種だったかわからないのですけど、実際ほとんどの種が、本来、良い土地に落ちて100倍、60倍、30倍にもなるはずで、これが植物の、成長していく、という生命の本来の在り方だと思います。

成長していってさらに多くの実を結ぶ、というように、もともと神様につくられている。それが本来の命の特徴です。成長して、伸びて、実を結ぶ、と、植物であろうと動物であろうと人間であろうと、そのように神様がつくっておられる、ということですね。しかし実のところそれが伸びていく時に、なにかこう、手助けというか、世話というのが必要になってくるわけです。

一緒に住んでいる三浦神父さんは庭をするのが趣味で、いろいろと野菜を作っているんですが、ほぼ毎日食事の時に、今日はどうっだったとか、なにが実ってきたとか、なんとかに肥料が足りないとか、暑すぎるとか、なんとか、毎食この話題でして、要するにかわいがっているわけです。庭に出ては水をやったり、ここは土地がやせていますから、肥料をやったりと、世話をしてかわいがっているわけです。で、きゅうりも食べたし、もうすぐトマトもなってくるわけですが、ああいうのを見ていると、種はよい土地に落ちて実を結ぶといいますけど、ほおっておけば勝手に育つわけではなくて、なにかそこに農夫が、世話をする人がいてそれが育つように一生懸命ケアして、それで100倍とか60倍とか実を結ぶのですよね。

たとえ石だらけのところとか土が浅いとか、いばらの中に落ちたとしても、だいたい世話をする人というのは石を取ったり、土を掘ったり、いろいろと苦心して世話をして、それで何倍も、実を結ぶのです。それは三浦神父さまの様子を見ているとよくわかります。そういう、彼と実ってくる野菜たちのかかわりを傍で見ていると、これは対比ですけれど、三浦神父様が、神様で、ですね、どれだけわたしたちという野菜をを苦心して世話をしてくれているか、私たち一人一人が育つように、どれだけ心を配ってくださっているか、という神様の愛の暖かさをすごく感じます。

だいたい毎食、楽しそうに野菜の話をしてくれるわけで、僕はあまり興味がないんですけど、あんまりいつもいつもだから、僕もなんだか気になってきて、だんだん…。ちょっと庭に行って見てみたりとか。まあ、神様はどれだけ一人一人に心を配って、毎日毎日、成長を見て、今日は元気がないなとか、神様の心というのはそんなもんじゃないかと思うんですね。それで、30倍とか60倍とか、勝手に実を結ぶわけじゃないと思うんですよね。神様が手をかけて、ここまで来ている。

それも不思議で、植物はいろいろで、サツマイモなんかは土地が肥えているとかえってだめで葉っぱだけが増えちゃったりとか、無理に痩せたところに植えるとか、花だったら水切りといってわざと水をやらない時期とか、剪定だったら枝をちょん切るわけで、植物からみたらマイナスに見えるようなことも多々あるわけですよね。でも、それによって成長していくこともあるわけです。

私たちも神様に本当に愛されている命のわけで、この命が本当に育っていくために、実りを結ぶために、どれほどのケアを神様が、神様だけでなく周りの人からさまざまなフォローをもらいながら、私たちが30倍、60倍の実りを結ぶように、主がいつも導いてくださっている、この、ケア、世話の大きさは驚くばかりです。

私たちが今回の練成会で、こういう神様の恵みというものを振り返りましたが、それは私たち人間からすれば計り知れないほど大きな恵みで、もちろん、こま切れにすれば、このときは非常に苦しいとか、辛いとか、神様なんているんだろうかと思う、そういう時期も1年2年、人によっては10年とか続くことがあるかもしれませんが、神様の永い目から見たら、それはその植物が育つための大切な時期として神様が与えられて、そこから他の人とはちがう豊かな実りをもたらすために、神様が私たちに用意してくださっている、そんなことではないかと思うんですね。

もちろん私たちの目から見たら、なんでこんなことが、とか、わからないことだらけですが、神様の目から見たら、一人一人がだんだん成長してきている、魂がですね、それで、ちょっと日照りが足りないなとか、水が足りないとか、ちょろちょろ私たちに水をかけたり、光をあてたりとか、肥料をやったりとか、私たち一人一人に神様がしてくださっている。その神様を信頼して、私たちもなにかその実りの業に協力していきたい。

今日の第一朗読、イザヤの55章ですか、これも先ほどの福音とまったく同じですね。私の口から出る言葉はむなしくは私のもとにはもどらない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす、と。神が望んでいることを神様は必ず成し遂げていく、神様がそれをする、というふうに言っているわけですね。

大地を潤し、芽を出させ、おい茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。それらすべて神様がそうしたいからそうされている。その神様の大きな業の中に私たちそれぞれの命がある。自分一人だけではなく、家族や周りの人の命も。必ず果たす、と言った、その使命、神様の私たちに対する大きなご計画、大きな計らい、すべてを私たちは信頼しながら日々の出来事を受け止めながら、神様との交わりを深めながら、神様の業に協力していけたら、と思います。

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