【ミサ説教】マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」

マタイ福音書3章13-17節「天が開くとき」2026年1月11日主の洗礼のミサ 防府カトリック教会
イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けた時、天が開き、神の愛と聖霊が注がれた。これは神と人間を隔てる壁が開かれ、私たちも神の子として愛されていることを悟る恵みが始まった出来事と言えるでしょう。悩みや執着に囚われると心は閉じてしまいますが、神の温かさに心を向ければ自然と殻は開くでしょう。

北風と太陽のお話は神父様の定番。とてもわかりやすい例だよね。
福音朗読 マタイ福音書3章13-17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
天が開くとき
今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた。今の私たちの洗礼ではなくて、洗礼者ヨハネの洗礼を受けられて、ヨルダン川の川に、あまり大きな川ではないですが、そこに浸礼と言って頭からザブンとなるような、そういう洗礼を、体全体を水に浸すような感じで、それは当時の人がそのようにされていたわけですけれども、その後にイエス様だけ特別に、ここから不思議なんですが、天が開いた。
天がイエスに向かって開いたと書いてあるわけで、天が開くというのがちょうど私たち空を見ていても、別に空の向こうに何にもないというか、別に空は宇宙につながっているだけで、別に何か閉じているということは実際にないわけなんですけど、でも古代の人は天は閉じていて、天のこっち側が人間と自然の世界で、天の閉じている向こう側が神様の世界と分かれていると考えていたから、その影響でこのような表現になったのでしょうと思われます。
けれども、イエス様が洗礼を受けた時に、この天というか、神様と人間を隔てているからというか、壁というか、それが神ひらいて、そしてイエス様の上に、この聖霊の恵みと愛する神であるという御父の声がしたということですね。
これは非常に意義深いことだと思いますけれども、イエス様はこの洗礼を通して、神と人間とを隔てている壁が開いたというかですね、私たちも天が開いている、つまり神様と私たちが交わりの中で生きていくことができる。その恵みをイエス様が開いてくださった。開いたらどうなるかといったら、神の愛がイエス様に注がれていて、愛する子である神様の愛し方であるということをイエスが悟った。
結局、私たちもイエス様の洗礼の以降、私たちも開いて、神様に開いて、そして神様から愛されている神の子であるということを、私たち一人一人が悟ることができる。
その恵みが与えられていると言えると思いますね。
ただ、私たちは神様のことをつい忘れがちですから。
天が閉じちゃうというですか。実は天が開く、天が開いたり閉じたりするんじゃなくて、今の人間的な言葉で言ったら、自分の体が開いているか開いていないか、自分自身が神様に閉じているか開いているかという、実際はそうだと思うんですけど、私たちが日常の何かごちゃごちゃにとらわれると、この閉じちゃってですね、神様が向こう側にいて、何か人間のことだけで悩んだり、ああでもないこうでもないといろいろ考えたり、そういう中に囚われてしまうわけですけど。
でもイエス様が開いてくださったんだから、それを思い起こせば、私たちの心を開いたら、神様の愛が私たちに注がれてくる。それをやはり意識することができたらいいんじゃないかなと思います。
私たちにとってイエス様は教祖様みたいなもので、大体の宗教の全ての修行じゃないですけれども、教祖様のいる宗教というのは、だいたいその一番最初の人が特別な何かこう悟りを開いたり体験したりするところから始まるんですよね。
お釈迦さんだったら、菩提樹の下で悟りを開いたところが始まりなわけですよね。その悟りをみんなに伝えたいから仏教が始まって。
簡単に言えば、仏教というのはイエス様の悟りにあずかるためにお経を唱えたりしている。簡単に言えばですね。
それがなんと言いますか、天理教だったら、すぐそばに天理教のあれがありますけど、天理教だったら中山みきという人が突然神がかりになって特別な状態になってですね、それがあったから天理教が始まって、いわば神がかりみたいなものにみんな信者さんが預かるのが一つのか、目的というか、そういうものになっているわけなんですよね。
だから、私たちはもうはっきりしていて、クリスチャンだからですね。イエス様のどの体験にあずかるかといったら、この体験にあずかるのですかね。
私たち一人一人がやっぱり開かれて、神の恵みが自分の上に注がれていて、やっぱり私たち一人一人が神様から愛されている子であるということを、どこかで実感したり確かめたりしながら生きていくことができる恵みが、私たち一人一人には与えられているということですよね。
それをしっかり時々は思い出して、特にこの悩み出したら空が閉じちゃうから、空が閉じた中で、ああでもないこうでもないって私たちは悩みがちだと思うんですが、でもその開いている外なんですよね。開いて、神の恵みが私たちに注がれているということをやはりしっかり思い出しながら、それこそ私たちのアイデンティティーというか、私たちの存在の根本にあることだということなんですよね。
昔話のイソップ物語の中でも、一番大好きなお話が、北風と太陽のお話って、子供たちも知ってるかな?私達がこの北風と太陽が。争うというか、競争するんですよね。今日みたいな寒い日に旅人が外を歩いてるんですよ。この寒い中を旅人が外を歩いていて、旅人を見て、北風と太陽がじゃあ競争して、寒いからマントを着ているわけですよね。皆さんだって今日はコート着てきたでしょう。同じようにマントを着て旅をして、寒い中で北風と太陽が競争して、どっちが、旅人が着ているマントを脱がすことができるかということで競争するんですよね。最初に北風がどうしたかと言ったら、まあちょっとだいぶ、今日はおさまってきたけど、さっきまですごい風が吹いて、北風を吹かせて、この旅人のマントを取ろうとするんですよね。
でも、風を冷たい風を吹かせば吹かすほど冷たいから、コートをギッチリ握りしめて。だってこれが取れたら寒くなるから、コートをギッチリ握りしめて、絶対マントが飛ばないように頑張るわけですよね。北風は。結局北風さんはコートを取ることに失敗するんですよね。次に出てくるのが太陽で、太陽がどうするかって言ったら、ちょっとこの冬場はちょっと今日みたいな日足らないですけど、太陽の暖かい光を旅人にあてるんですよね。そしたらだんだんだんだん旅人は体がポカポカ暖かくなってきて、マント着てたら暑いから自然とこのマントを脱いで、それで脱いちゃうわけですよね。そしたら太陽が結局勝ったって言うわけですよね。北風は冷たい風を吹かせるけど、コートが取れない。でも太陽が暖かい光を与えたら、自然と旅人はマントを脱いで、太陽が争いに勝ったっていうお話なんですけど。
このマントっていうのは何なのかはっきりしてますけれど、私たちの執着ですね。
ぐっと逃げて、この話だったら殻の中に閉じこもって、寒いからぎゅっと自分の何がですね、何かそれは何か変な癖とか、執着とか、囚われとか問題とか、そういうものにぎゅっと握りしめて、でも風が吹いて、北風が吹いて、ピューピュー吹いて、他の人がお前ダメだろうとか、そんなそんなことをしてダメだとかって責めたり攻撃したりすればするほど、ぎゅっと握りしめる攻撃に人間を守らなきゃならないから、人からどんなに注意されたって叱られたりしても、結局自分で頑張ってどうしようと思っ
ても、結局寒いからぎゅっと握りしめて結局取れない。いつまでたっても。じゃあどうやって取れるかと言ったら、太陽の暖かい光があった時に初めて人間は囚われたり執着しているものを脱ぐことができる。
今日の話で言うたら、その時にぱかっと開くんですよね。殻が。
自分の殻が閉じこもっている時は攻撃されているから、危ないから殻に閉じこもってぎゅっと防御態勢に入っている。その時は神の愛が入らないですよね。そこから抜けることもできない。
だから、私たちが心を開いて、神さまの方に太陽である神さまに心を向けたら、勝手に暑いから勝手にコート脱ぐし、勝手に殻も開かざるを得ないとか、雨も降ってないので、ぱっと空を開けて、そうしたら、神さまの暖かさが心の中に入ってくるから、それで囚われから解放されて、人間を自由に生きていくことができるということなんですよね。
先程も広島教区のお祈りで温かさのある教会を目指すなんて、目指しましょうとか先をお祈りしてましたけど、本当の温かさは神さまからですよ。やっぱり神さまが温かい方だから、その温かさを私たちがいただけば、自然と私たちは暖かくなって、コートも要らないし、閉じる必要性もなくて、自分の心ですよね。
心をぱかってあげれば、神さまの温かさが自分の心の中に入ってくる。
体の方はヒーターとか、ちょっとエアコンであっためるけど、心の方は神さまの温かさを心の中に入れれば、自然と暖かくなってくるわけですよね。だから、私たちがいかに神さまに心を開いて、神の温かさを受け入れていくかどうか。
でも、それが何でできるかといったら、イエス様が洗礼受けられて、天が開いたから、私たちにはそれが可能だということですね。この神さまの温かさに心を開いて、その神さまの温かさの内に温かい心で。今寒いですから、特にそうですけど、温かい心で歩んでいけるようにですね、神さまに恵みと力を願いたいと思います。
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