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【今日のミサ説教】マタイ福音書28章16-20節「神も交わりの中に」

hanafusafukuin

マタイ福音書28章16-20節「神も交わりの中に」2024年5月26日三位一体の主日六甲カトリック教会

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 三位一体ということは、神様も交わりの中にあるということです
  • 神様は、交わりの中にある存在なのです
  • フィリピンのラルシュ共同体での神父様の体験が聞けます

Lちゃんの話は泣けるね

マタイ福音書28章16-20節

16〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

神も交わりの中に

今日は三位一体の主日にあたっていて、そして今日の福音書では、このイエス様が弟子たちにですね、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと命じているわけですね。だからカトリックの洗礼は父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けているわけです。

洗礼とは「父と子と聖霊の交わりの中に沈み込んでいく」こと

これは、どういう意味なのか。聖書と典礼にも書いてあるんですが、「名によって」というのは、「名の中に」っていうんですかね。そういう前置詞をギリシャ語では使っていて、しかも洗礼というのも沈めるという意味なんですね。だから、「父と子と聖霊の名の中に沈めていく」っていうような。「名」も、看板のようなものではなくて、「実質とか本質」を表すものなので、この父と子と聖霊の交わりの中に沈み込んでいくっていうか、私達がですね。

洗礼を受けるということは、もっと簡単に言ったら、父と子と聖霊の交わり、三位一体の交わりの中に、私達は与かっていくというか、そのような恵みが私達に与えられているということですね。だから三位一体の神様ということは、やはり神様自身が交わりであって、その交わりに私達が入っていくことができる。その恵みが与えられている。だからこの第2朗読で、聖霊によってこそ、私達は「アッバ、父よ」と呼ぶことができる。それは三位一体の交わりに私達が入ってるからだというふうに言えるでしょう。

私達は、今度三位一体の交わりを味わいながら、この三位の交わりをどう生きていくかということが、問われているというふうに言えると思いますね。

フィリピンのラルシュ共同体での体験から

20年ぐらい前第三修練というのをフィリピンでやったときに、このイエズス会の最後の養成コースみたいなのが、半年ぐらいあるんですが、そのうちの1ヶ月ぐらいは実習と言ってですね、いろんなところで一人ひとり実習してたんですが、私はフィリピンのラルシュ共同体というところで、アシスタントをやってたんですね。

ラルシュ共同体というのはご存知な人もいると思うんですけど、ジャン・バニエにという人が創立して、知的ハンディを持つ人と健常者のアシスタントとか一緒に暮らす共同体なんですね。日本では静岡のカナの家がラルシュ主共同体ですが、フィリピンで1ヶ月、私もそのアシスタントとして一緒に暮らしてたのですが、その中で様々なことがあったんですが、1人の、名前は仮にL子ちゃんっていう、小学生ぐらいなんだけど知的ハンディがあるから、体の大きさも知能も幼稚園児ぐらいなんですよね。小学校の高学年ぐらい、本当は高学年ぐらいだけど、知能は幼稚園ぐらいで、大体女性の仲間、コアメンバーには1人のアシスタントが付いてて、彼女に付いてたアシスタントがYさんで、フィリピン人なんですけど、いつも暗そうなですね、何か気怠いような感じがして、普通のフィリピン人はニコニコした温かい感じがするのに、彼女はすごい疲れた感じがして。

ところが、ミーティングしたときにですね、Yさんがとにかくもう、そのLちゃんと、もう、やっていけない。それはもう、めっちゃめっちゃわがままな子で、なんていうんですかね、好き嫌いは激しいし、言うことを全く聞かないし、しかも睡眠時間が短くて。フィリピン人は割と昼寝とかするのが好きなんですけど、でも昼寝の時間はずっと歌を歌ってて、誰も寝れないとか、もうめちゃめちゃな性格で。それで、もう彼女はここに置いとくのは無理なんじゃないかって話にだんだんなって。それでそのYさんがあんなにいつもいつも暗い顔してるんですね。L子ちゃんがあんまりわがまますぎてもう駄目なんですよね。扱いきれなくて疲れきってた。それで、みんなもうこれは、彼女は共同体に入れとくのは無理なんじゃないかっていう話にちょっとだんだんなったんですけど。

(ところで)Lちゃんには奇妙な癖があって。その共同体の隣がちょっとした保育園みたいな感じで、そこで昼間はデイサービスみたいなかんじで行ってたんですけど、女の子だから、ちっちゃなカバンを持って行くんですが、でもそのカバンの中が非常に奇妙なものであって、どう奇妙かって言ったら、お着替えのセット、お泊りセットをいつもカバンの中に入れて。隣に行くだけなんですけどね。何時間したら帰ってくるんだけど、でも必ずそのカバンの中にお泊りセット、着替えの服とか、タオルとか全部入れて持っていくんですよね。普通そんなことしないでしょ。ちょっとタオルぐらいだろうけど。

彼女の奇妙なその行動を観て、そのミーティングの中にはカウンセラーがいたんですね。カウンセラーだったか心理学者なんかが、なんで彼女がそのカバンの中にお着替えセットまで持って、隣に行くだけなのに、持って行くのかって言ったら、カウンセラーの人が、多分彼女には、帰る家族がないからじゃないかと。つまり、どこに行くのにもお泊りの気持ちになっちゃう。どこにも安らぐ場がないから、だから必ずどこでも泊まれるものを持ってないと気持ちが収まらないのだろう。実際彼女はお父さんを知らない。結局崩壊家庭ですよね。お父さんを見たことないし、お母さんも彼女をちゃんと育てないから、家族が崩壊してて、どこにも行けないから、このラルシュに彼女が来たわけですよね。

つまり、彼女には本当の交わりとか、一つの繋がりを味わったことがない。それがはっきりわかって、みんなで頑張ってみようっていうことになって、みんなでアシスタントで協力して、彼女を支えるっていうんですかね。特にみんなで気を遣って、あんまりわがままなときには、アシスタント全員で注意したり、それでだんだん変わってきて最後の頃は一応食事が終わるまでは立って歩かないようになった。もうちょっと食べたら、めちゃめちゃだったんですけど、だんだんと自分なりに工夫して。

その中で男性のアシスタントで韓国人の若者がいたんですね。ちょっと体がでかいやつが1人いてL子ちゃんは彼の事を「タータ」ですね、「タータ」はフィリピン語でお父さんっていう、つまりお父さんも知らないから、だからこのでかい韓国人の若者を「タータ、お父さん」と言ったんです。結局彼女にとってはそのグループが家族であるってことなんですよね、そうするとみんな家族として彼女に接して、1ヶ月ぐらいして、またミーティングして、彼女も努力してるし、周りの人たちも一生懸命支えて、彼女なりに努力していたので、放り出すこともなく、ともに歩んでいくことができるようになったんですが、私達も交わりの中に生きているということですね。誰1人として交わりなしということは、結局はできないってことですね。

第2朗読では聖霊によって「アッバ、父よ」って、アッバっていうのはこれはもう「おとうちゃん」とか「パパ」っていうんですけどでもLちゃんにとっては、その共同体の中で韓国人の彼を「タータ」、お父さんと呼べるってことは、共同体としての信頼関係があるから、彼をお父さんと呼んでお父さんのように慕ってたわけなんですよね。

互いに支え合う中でこそ三位の神が生きている

神様が三位一体であるっていうことは、大きなやっぱり私達にとって支えになると思います。私達は交わりの中でこそ、お互いの信頼の中で生きているからですね。それが血が繋がっているのが血が繋がってなくても、私達が互いに支え合ってる中でこそ、三位一体の神が生きているってことだと思います。誰しもバラバラで、孤独で生きてるわけではない。神様もバラバラで生きてるわけじゃないわけですから。

だからこそ、三位の交わりの中にある神だからこそ、私達もこの交わりを大切にしていきたい。特に何かもう、今は個別の時代になっちゃいましたからね。なんていうか、バラバラで、高齢者もバラバラで暮らしてるし、多くの人がバラバラで生きる時代になりましたから、三位の交わりはずっと大事だと思います。私達が三位一体の神様を信じ、その神様の交わりに、三位の交わりの中に、互いに支え合って歩んでいけるように、神様に恵み力を願いましょう。

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