説教ライブ

【2024年9月16日いやしのミサ】ルカ福音書7章1-10節「あなたを縛っているものは」

hanafusafukuin

ルカ福音書7章1-10節「あなたを縛っているものは」2024年9月16日いやしのミサ旅路の里

今日の福音書朗読とお説教の聞きどころ

  • 私たちは多かれ少なかれ何かに囚われています
  • 縛っているものの声を聞く限り、心の解放はありません
  • イエス様の呼びかけは私たちを自由にします
  • 神様の前に謙遜に心を開いて解放を願いましょう

いやしのミサは釜ヶ崎旅路の里で毎月第三月曜日19時からです

福音書朗読 ルカ福音書7章1-10節

(そのとき、)イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

あなたを縛っているものは

今日の福音は、カファルナウムというですね、イエス様が最初に活動していた。拠点の都市、村かちょっと大きい町ぐらいだったと思いますが、そこにペトロのですね、家があったりして、多分そこを拠点にして活動してたんですね。

そこに百人隊長という人がいて、文字通り百人隊長って何かって言ったら部下が100人いる軍隊の隊長なんですね。当時のイスラエルっていうのはローマ帝国っていうものすごく大きな帝国に支配されてたんですね。今のアメリカよりもちょっと何か力があるような感じの国だったんですが、今で言うとイタリアですけどね、ローマ帝国でローマ帝国っていうのがその地中海沿岸を全部支配していて、植民地のようにしてたんですけど、なんで植民地として支配できたかって言ったら軍隊を派遣して、軍隊で押さえつけてたんですよね。その一番大きな単位がレギオンと言うんすけど、1レギオン6000人の兵隊があるんですが、ローマから見て東の方ですからイスラエルはそのあたり大体204ぐらいいたんですね。シリアあたりにちょっと一つと南にもう一つぐらいあって、この東から攻めてくる敵と戦うためにですね、軍隊が入って、二つぐらい大きな軍隊があってその下にまた小さなグループになって、一番下が100人の部隊で、カファルナウムだけか、カファルナウム、プラスどっかのところに100人の兵隊がいて、いわば押さえつけてたっていうかしてたわけですよね。

でも、ここに出てくる百人隊長はなかなかいい人でイエス様からも褒められるような感じで、この百人隊長の部下ですね。100人のうちの1人が病気だったんで、イエス様に病気をなんていうかね、治してほしいというふうに思っていたんで、長老たちも頼んでですね、百人隊長の家に行こうと思ったんですが家に行く途中で百人隊長の友人が来て、言葉だけでいいからって言って、言葉だけでもらって、イエス様がその部下を癒すというお話なんですよね。

そのときに百人隊長がこう言うんですよね。私の部下を癒してください。私も権威の下に置かれているものですが、権威ってだからローマ帝国の軍隊の中に置かれてる私の下には兵隊がおり100人の兵隊がいてですね、1人に行けと言えばきますし、他の人に来いと言えばきます。また部下にこれをしろと言えばその通りにします。

私たちの上司は?

それは兵隊ですから戦争するんで、部下が命令通りにやらないと絶対勝てない。スポーツも同じですけど、監督が言う通りにしないとやっぱ勝てないから。だから部下は当たり前ですけどね軍隊だったら言われたら言われた通りにして戦ったり引いたり右に行ったり。それも絶対絶対服従ですよね服従しなきゃ自分の命も危ないし、部隊全体がやられちゃう可能性もあるから、みんなで連携しなきゃならないんで、それでも言う通りにやらなきゃならない。それは軍隊と、あとは部活ですよね、スポーツも同じだけど団体競技も同じような形になるわけですけど、それでそうそのようにするからと言ってですね、イエス様がそれにすごく感心するわけですが、私達は考えなきゃならないのは何かって言ったらですね、私達は皆さん別に軍隊に入ってる人の中に、もしかしたら自衛隊でやってた人1人ぐらいいるかもしれんけど、問題は私達の、どういうのかな、私達、私の上官っていうか、この上司は誰で、それにどのように私達は従ってるのがていうことはちょっとよく考えなきゃならないってことなんですね。

つまりこの百人隊長はいい人なんですごくいい、だからいい上司がいたらその通りにした方がもちろんいいんですけれど、だけどみんながみんないい上司でもない。いい人でもないからその人に従ってしまうと、かえって破滅してしまうことがある。

皆さん知ってるかどうか、今の兵庫県知事の斎藤知事という人がおって、僕は神戸に住んでいるんでね、もうほぼ毎日、新聞に出てくるし、テレビでも毎日出てくる。その、ちょっととんでもないタイプの人がそのちょっと今問題になってるんですけど、僕はその人の問題もあるけど、僕が思うのは、取り巻きも問題だって。その人の言う通りにやってた取り巻きが。だからグジャグジャになってることもあってもちろんそれは上の責任ですけどね。でも、そのめちゃめちゃな上司に言われた通りにやったらいいかどうかっていう問題があって、その通りにやったら、結局2人ぐらい死んじゃって、3人かな、2人が3人死んじゃって結局辞職せざるを得なく、なっちゃってるわけなんですよね。だからやっぱりね一番考えなきゃならないのは、自分は一体誰の命令に従って生きてんのかっていうことをちゃんと考えなきゃならない大きなポイントなんですね。

個人を縛る両親の影響、社会の影響

もちろんだから今の職場でどうのこうのとかってこともあるけど、もっと根本的に、ちょっとなんていうんすかね。もっとはっきりはっきりっていうかどう言ったらいいのか、結局自分が今までどう育ってきたかってことを考えなきゃならないということと、自分が誰に従ってきてどのように不自由になってるかっていうことの反省が必要で、多くの場合は三つも四つももちろんあるけど、一つはやっぱり自分の父親とか母親に従ってきて、かえってぐちゃぐちゃになる人いっぱいいますね。

自分の父親とか母親のお父さんとお母さんいい人だったらいいんですけど、時々とんでもないもので、それに従ってきたがゆえに、自分が奴隷のようになってしまって、この、とらわれちゃってるっていうことは、度々ありますね。

それはねちょっとよくよく本当のお父さんとかお母さんというよりも自分の中なんですよ、自分の心の中にいる。父親とかお父さんの場合もあるし、実際まだ生きてて、それで影響を受けるっていうこともありますし、まあね、なかなかそういう何か暴君っていうか、とんでもないやつに従うことによって、十分が囚われたり、苦しめられたり、結局何かどんづまりになってしまうっていうことは、少なくない。

もちろんこれよくよく振り返らなきゃならないけど、プラス、社会の中でのなんか親分みたいなのもいいますね。それに、例えば日本人だったら、日本の社会独特の、こういうそれは姿は誰かを通してくるんだけど、何か縛られてるものもあってそれに私達従っていいかどうかも、ちょっとよくよく実は見なきゃなんないことなんですよね。

癒しの一つの大きなポイントは、そういう悪いものから解放されなきゃ、癒しがないっていうことなんですね。ステレオタイプ的に日本人を縛ってるものは何かっていうと一つはみんなと同じようにせよっていう、つまりみんなと同じようにしなきゃならないっていう、それ自身ももちろん悪いことはないけど、でも結局みんなと同じようにすることばっかりにとらわれちゃうと、結局自分が苦しくなったり縛られたりしてしまう。でもやっぱりイエス様は多分そうは言わないと思うんですねイエス様は一人ひとり違ってていいってイエス様も言うと思うんですけど、でもやっぱり何か自分を縛っていく何かが確実にあるんだというふうには思いますね。あるいは、きっちりやれってのはあれですね。

きっちりやるっていうのは日本人は元からあって、とにかくどこに行ってもきっちりやらんといかんのですよね、あれだけど。でもみんながみんなきっちりできるわけはないのできっちりだけにとらわれてかえって不自由になっちゃうこともやっぱりある。

あれは皆さん感じているかどうかわからないけど時々優秀な人、優秀な人はこれは社会もそうだし、親もそういう何か一番にならなきゃならないとか。そういう2番は駄目とかね、一番に絶対にやらなきゃならないっていうそういうふうに縛られている。それは優秀な子、優秀な優秀なオツムがなんかすごくいいとか、スポーツがめっちゃできるとかっていう人ですけどね。

偽の愛には恐れがある

だからもう典型がオリンピックで金メダル取らんといかんって話ですけど、まずもちろん意味もあればあれ、あれですけど、だから何が自分を縛ってんのかで縛られてるときは、やっぱりね動機が恐れとか不安とか、何ていうのかな、なんか愛のようで、愛じゃない執着だったり、結局なんか、なんかそれをクリアにしたらもちろんいいんだけど、でもなんか脅されてる感じがあって何かそういう世界があるんすよね。あるっていうか、心の中にあるんですよ。なんていうか私達の間にあるんですよね。

イエスの呼びかけをどう聞くか

ただそれを、それに対してやっぱりノーって言わなきゃなんないそれを、それをやめるってやっぱり言わなきゃならないってことと、イエス様は自分に対してどう望んでんのかをどう呼び掛けてるのかよく聞かなきゃなんないってことですね。

もちろんあるときは我慢しろということもある。全く我慢がいらないってことはもちろんないけど、でもイエス様が呼びかけるのは何か私達を自由にする方向性っていうのかな。自由と、なんか本当の愛に招く方向性にイエス様は大体呼びかけてますよ、本当のところその声を聞いてそれに従って従いますって言わなきゃなんないから、まずはその何か呼びかけですよね。それを聞かなきゃやっぱりなんない。

いやしは心から始まる

だからみんなと言えないけど、病気になってる人見たら、具体的な病気ですけど、でもその人の病気はどうもやっぱり親に縛られて病気になってるように見える人もいるし見えるから、本当のところ、結局奴隷状態だから病気になってる。心が縛られちゃってるからそれで病気になってるように見えるのは、わりと多々見受けられる。みんながみんなってことはもちろんないんですけど。だから本当はね、本当の癒しの一番大事なポイントは、心の癒しですよ。心の癒しは何かっていう言ったら、囚われからの解放ですね。

その前提を何かって言ったら、何にとらわれてるかっていうことに気づき、気づくことができたら、ちょっと解放の道がわかってくる、あるいはイエス様は絶対私達を不自由にしたり、その囚われを、何て言うんですかね、囚われを深めることは絶対言わないんですよね。

だけどもイエス様の声のようにして、悪魔がね、悪魔がささやきかけて、囚われとか不自由とか縛られてる状態に何か縛り付けられてる雰囲気になることも少なからずありますね。別にそれは社会で成功してる人たちも縛られてる人いっぱいいますから、さっき言ったように非情にならなきゃならないっていうような。ある意味一番競争してる優秀な人たちもおってね、その人たちみんながみんな縛られたわけじゃないけどそん中でもある人も縛られてて、なんかあんまり喜びがないっていうのかね。

多分ね優秀だから100点取らないとお母さんに怒られたとか、99点でも怒られ、100点じゃないと駄目とかねそのような縛りを受ける人もいる、受けない人もいる。元々40点しか取れなかったのはそれはちょっと別の別の縛りやから、それはそれでまた平均点取れみたいな感じで言われるから、その人によっては違いますけど。とにかくやっぱりね、どうかな、縛られてない人はいないと思ってます。本当のところ。大きい縛りか、小さい縛りかはともかく、ほとんど縛られてると思ってますけど、本当のところ。

弱さを神の前に開く

だから、私達はやっぱり解放されていく、イエス様の恵みによって。やっぱりこの百人隊長のように謙遜な気持ちですよね、まずはね。やっぱり自分はふさわしくない。でもどこがふさわしくないかも本当はわかっていない。でもやっぱりそこに神様来てくださいますから、だから何かふさわしくないって言ってるのは別に神さまの恵みもいらないって言ってんじゃなくて、やっぱりちゃんと自分の弱さといたらなさがわかって、神様の前で自分を開いて、助けてくださいっていうか、そういう気持ちがあるならば、やっぱり主が助けてくださると思う思いますね。

特に自分やっぱり神様に正直に開いて、やっぱ本当の一番の大切な自由と愛をイエス様からをいただくことができたら私達は本当の癒しの恵みにね、あずかれるんじゃないかなと思いますそれはすぐにできるものでもないし、タイミングもあるし、何かあるあるときに、はっと気づくこともありますし、案外大人になってからね若いときわかんなかったけどある時中年ぐらいでぱっとわかったりすることもあるし、それは人によってやっぱ違いますから神様の恵みが私達1人1人に、神様の解放の力がですね、私達1人1人に下るようにですね、神様に恵みと力を願いたいと思います。

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