【ミサ説教】ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」

ヨハネ福音書 4章43-54節「離れていても届くもの」2026年3月16日カマのミサ旅路の里
ヨハネ4章の癒しは、離れた場所にいる人にもイエスの言葉が届くことを示しています。ここで問われているのは奇跡そのものではなく、その言葉を信じる信仰です。現実が厳しいと人は信じることが難しくなりますが、信じることは未来への希望を持つことでもあります。イザヤ書が語る新しい世界の約束のように、現実を認めつつもそれを超える神の愛を信じて歩むことが、私たちに生きる力を与えるのです。

本物の気功師さんに治療したもらいたいA次郎です
福音朗読 ヨハネ福音書 4章43-54節
(そのとき、イエスはサマリア)を出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。
離れていても届くもの
今日の文章はヨハネの4章イエス様の癒しのお話ですが、このカファルナウムの王の役人というんですが、これと同じかどうか分からないですけれど、マタイのファッションに出てくる百人隊長のしもべの癒しとの話ではないかという説もありますけれども、ちょっと微妙に違っていて。そうである人とそうでないという人はいるのですが、まあ共通点は何かと言ったら、離れている人を癒しているってというんですかね、その場にいない人をイエス様は癒しているということなんですけど、イエス様の癒しのやり方はそれぞれで、いろんなやり方があるんですけれど。離れている人に対しても、イエス様は癒やすことができるというのもなかなかすごいなと思いますが。
日本の気功、気功師、本物の気功師というのは、実は離れていても癒せるんですよね。この気功で癒す人です。私の知り合いにもいるんですけど、一人ですね。びっくりしますけど、気功して地球の裏側に行っても癒されるんですよね。この気を飛ばして。気功師の本物か偽物かの区別は、やっぱり遠治療法の離れている人を癒せる人が大体、気功師としては本物って感じですかね。
ちょっとこのイエス様が遠くの人を癒されるのを見ると、私の知り合いの気功師のことを思い出しますけれども。
マタイの8章とヨハネの4章で、他のところもそうですが、つながっているのは何かといったらですね、やっぱり信仰が問われているとですね、人間の側から信じるということなんですよね。イエス様が言うわけですよね。しるしや不思議なはを見なければ決して信じないというふうに人々について言うわけなんですけど、でもこの人はイエスの言われた言葉を信じて帰っていったと言います。
何を信じるかって、イエスの言葉を信じるということで、それで癒しが行われるわけですけど、マタイの8章もそうで、今、聖体拝領で言うようになりましたけれども、イエス様が自分の家に来なくていいとお言葉さえ言ってくださったら、それでしもべは癒されますと言って、それで癒されるわけなんですけど、癒しは神様からの純粋なお恵みですけども、でもそこで人間の側から、必ずしもじゃないけれど、やっぱり問われるのはこの信仰ということなんですね。
信じるかどうかということが私たちの人間の側に問われる、ある意味唯一のことだというふうに言えるかもしれないと思います。でも、この信じるというのがなかなか難しいということもあると思いますね。何で難しいかと言ったら、現実が厳し過ぎる時に、私たちは信じることができないということだと思います。
まあ、この釜ヶ崎でもそうですけども、なかなか厳しい現実があって、一人一人の問題、抱えている問題から脱せられないということもありますし、社会構造的にですね、やっぱり弱い人がどうしても虐げられたりとか、結局やはりあるでしょう。世界中そうですけど、結局強い者が勝っちゃうということで、弱い者が負けちゃうという、今の戦争もそうですけれど、結局強い者が弱い人をやっつけちゃうような、そういう現実がある中で、その中で私たちはどう信じて生きていくかというかですね、それが実際一番大事なことじゃないかなというふうに思います。厳しい現実があったとしても、その中で私たちは神様の言葉、神の救いを信じながら歩んでいくことができるかどうか。だから、実際、信じるってことと希望することとほとんど変わらないんですよね。信じるってことは、やっぱり未来を、未来に対して希望を持って生きていけるかどうか。
まあ、今はちょっと厳しいかもしれないんですけど、この厳しさを乗り越えていく神様の力を信じる、あるいはそれを希望していくという中に、私たちのこの生きる力が、何かが開かれてくるということなんですよね。
第1朗読がイザヤの65章でなかなかいいんですけど。
見よ、私は新しい天と新しい新しい地を創造するというですね、救いの世界をこの一生の間語っていてですね、若死する者がいなくなるってんですね。年老いて長寿を満たさない者もいなくなる。だからみんな長生きになるってことを言ってるわけですけど、まあ釜ヶ崎は平均年齢10歳以上若いですよね。
だいたい88年80ぐらい。女性もうちょっと長いけど、80ちょっとぐらいが平均年齢だけど、でも70ぐらいでしょうね。10歳ぐらい若い時に死んでいる。それはもう生活のいろんな問題とか、若い時から不摂生しているとか、ちゃんと栄養を摂ってないとか、野宿をしたことがあるとかなんとか、10歳は。だから西成区の平均年齢、非常に低いです。全国で一番低いぐらいの、特に男性ですけど、若死に率すごい高いですよね。でもそうじゃないとここでは言ってるわけですけど、今度朗読の方で切れて、この後もっと面白い話があって、この狼と小羊が一緒に座ったからとか、そういうところが実はつないであるんですけれど、でもなかなかね、実際はさっき言ったように、大きいものが強いものは弱いものをいじめるとか食べちゃうとか、そういう世界なのに、このつなぎのあとはひっくり返って、弱いものと強いものは仲良くするみたいな話がこの後出てくるんですよね。それはやっぱり神の国の到来の話でしょうけど、でも、そういうこういうみ言葉を私たちは信じて生きていくかってことなんだと思うんですよね。現実はいろいろ難しいことがいろいろあるある。それも確かですけど、それを超えるやはり神の愛を私たちが信じて、それを単に信じるだけじゃなくて、やっぱりそれに向かって歩んでいくという、そのそういう力が私たちには与えられるということですよね。
まあ、病気が癒されることもあるし、癒されないことも実際はあります。癒されたとしても、また病気になっちゃったりとか、依存症の人が癒されたと言えるかどうか分からない。またスリップしたりとか、たびたびやっぱりありますけれど、それでもやはり救いを信じながら私たちが歩んでいけるかどうか、ちょっと目にはちょっと何か駄目になったような感じに見えたとしても、でもそれが最終的にダメではなくて、やっぱり私たちは救いに向かっている。
神の国の完成、やっぱり喜び、正義が本当に守られる、平等な平和な社会、争いのない社会に、それはやっぱりイエス様がもたらしてくださるということですから、それを私たちが信じて、それは希望して今ないわけですから。もちろん全然ないわけじゃないけれど、完全ではない。
だからこそ、私たちは信じることと希望することが、私たちはやっぱり前に向かって歩んでいく。私たちの世代でできないかもしれないけど、それはまた次の世代に持ち越されるかもしれないですけど、イザヤ書ではっきりそのような世界が来るって書いてあるわけですから、その言葉を私たちが信じて歩んでいけるかどうかですよね。
私たちがやはり良いものを信じていけるようにですね。現実を認めることは信じることと関係ないですからね。現実は現実で認めなきゃならないですけど、信じるのは現実を超えるところを信じる。現実を超えていくことに希望を置くということですから。神さまの愛に信頼して私たちが歩んでいけるように、神さまに恵みと力を願いたいと思います。
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