2009年3月31日ヨハネ8章21-30節「私は共にいる」黙想会 鎌倉

8:21 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
8:22 ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
8:24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
8:25 彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
8:26 あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
8:27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

ヨハネの福音書の8章のところの箇所ですが、ひとつのポイントは「私はある」、というところですね。イエス様がおっしゃる、私がある、ということはまあ、どういうことなのかですね。ギリシア語では「エゴエイミー」という言葉で、英語に訳すと”I am”、ということなんですが、それを日本語に訳すと「私はある」というふうに言ってるわけです。ただまあ、訳としては、私はある、というのは日本語の訳としてはあまりふさわしくない訳であるというふうに思いますが、というのは、ある、というのはですね、だいたい物について使う言葉なんですね、あの、テーブルの上にろうそくがある、って言ったり…だいたい物はですね、この部屋に椅子がある、とかいうふうに言うわけですが、人間の場合は、ある、という動詞は使わないですね。人間の場合は「いる」という動詞を使うわけです。この部屋にだれそれがいる、とかですね。この部屋にいないとか、いうことですね。イエス様は人間なので、「私は」と言ったら「ある」というのはあわない。日本語からしたら「私はいる」ですね。あるいは、人間の側から言うならば、「イエスがいる」と。「イエスがおられる」と。

で、そのイエスが「いる」と言っている、それを私たちがどこで見出すかですね。ここに出てきてる、ファリサイ派やユダヤ人たちは、結局イエスがいると言っているところがわからないわけで、だからまあ、この世的に考えたり、私の行く所に行けない、と言ったらですね、自殺するつもりなのか、とかですね、まあ、結局ずれてるわけですね。結局のところ、ヨハネの福音書を書いたヨハネと、ヨハネ教団の人々は、イエスがいる、ということを見いだしたんだと思いますね。それを、だからこの福音書が書いている。それは祈りの中で、やはり深める中で、イエスがいる、他にもうちょっと言うならば、イエスが生きておられる、と言ってもいいし、イエスがともにおられる、と言ってもいいと思いますね。そのようにイエスがおられるところを私たちがつかむかどうかということをですね、ここでイエスが言うわけです。あなたたちは人の子を上げた時に初めて、私がいる、ということをわかるだろう、と。あげる、という言葉ですが、それはヨハネでは十字架にかける、という意味と、復活するということがすべて入って「上げる」という言葉を使っているんですが、その時に私たちは「イエスがいる」ということがはっきりわかる、ということですね。イエスがどこにいるのか、それは本当にやっぱり過去にも問わなければならないし、そして今、いえすがいるところに私たちも共にいなければならない。そして未来に向かってもそうのわけで、イエスがいるところに私たちも行かなければ、それは、ずれてしまうのですよね。イエスがどこにいるのか、自分の生活に、自分の過去に、今に、そして自分の未来に。イエスが十字架にかかって復活したということは、イエスが私たちと共にいる、と。そのいる、ということをはっきり、くっきりと、私たちに示された。それは疑いもなく私たちと共にいる、ということですね。その、いるところをはずさなければ、私たちの人生はイエスと共に歩む、といことができる、御旨にかなう生き方ができると思うんですよね。その出発点、イエスがどこにおられるのか、ということだと思いますね。でも、それはどこ、ということは結局は物理的なことじゃないわけで、私たちの心のあり方にかかっている。実際のところは。ひとりの知り合いの青年がいて、彼はまあ、2回就職したんですけど、まあ、なんか、いろんなことでうまくいかない。結局こう、心の調子を崩したりなんかして、しかも、彼女がいて、付き合っていたんですけど、結局そういうことの中でうまくいかなくなってですね、すべてがうまくいかない。仕事もできない、そういう時に彼は、四旬節中だったんですけど、道を歩いていて、自分の家に帰る予定だったんですが、あまりの苦しさのために、もう、道端で倒れてしまいそうになってですね、うずくまってしまいそうな気分になってですね、まあ、信者の人ですが…その時自分が道に倒れるか、それはもう自分の人生全体の重さみたいなものを感じたと思うんですが、倒れそうになった時ふと横を見たら、なんと、十字架を担ぐイエス様が自分の横を歩いているという姿をはっきり見た、というんですね。あまりにはっきり見てですね、茨の冠をかぶって、血がしたたり落ちてるこのイエス様の髪の毛の生え際までがくっきり見えるくらいはっきりイエス様の姿を見て、あまりに驚いて、その、イエス様の姿を見て、なにか力づけられるものがあって、で、彼は倒れることなく家に帰ることができた。それだけではなく、それが出発点として、彼の中にあったいのちがよみがえってきて、結局今はそれから数年たちますが、社会福祉関係の仕事について、結婚もして、幸せな人生を歩んでいますが、でも、その一番どん底のところに、十字架を担いだイエスが彼と共にいた、ということですよね。共にいる、ということ、それを深いところで彼は…まあ、神秘的な、特別な体験だったと思いますが…それを見て、イエスがいる、というところから、自分と共に。で、そこから十字架を担いで共にいてくださってると。そこが転機となって彼はまったく変わる人生になった、という、そういうひとりの知り合いがいるのですが、やっぱり、イエスがいる、ということですね、間違いなく。しかも、十字架にかかって復活したイエスが共に居る、わたしたちと。それは、そういうふうな特別な体験の中で悟ることがあるかもしれないし、私たちはあきらかに祈りの中で、共にいてくださるイエスを見出していくわけですよね。でも、そのイエス様によって私たちは絶えず力づけられるし、励まされるし、慰められる。そして、そのイエスがほんとにいい方向に向かって、これからの私たちの生活というか、人生というか、それを目指していくしかないわけですよね。イエスのいるところに向かって。それからずれるほど、やっぱり私たちの人生は暗闇というか、方向性が見失われるものだと思います。そのように、イエスがいる、ということを信じること、信じるだけじゃなしに、イエスがいるということを、私たちは祈りの中で実感する、そして、イエスがいるところに向かって歩んで行く希望が私たちに与えられているんですね。まあ、願わくは私たちが、ファリサイ派のようにイエスがいるとかいないのかとか、自殺するつもりですかとか、ガリラヤ出身であるとか言って、まったくポイントがはずれてるわけですが、私たちはほんとに祈りの中でイエスのほんとに来られるところに自分の立ち位置をですね、置くことによってこそ、私たちはほんとの意味で充実した生活を歩んでいけることは間違いないと思います。それも、イエス様を信頼して、イエス様と共に、歩む、ともにいる、生きる。その道をしっかり見出していけるように祈りたいと思います。

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